「勝負審判」の版間の差分

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現在のように、審判が土俵下から判定をみるようになった理由は、1930年の[[天覧相撲]]をきっかけにしたもので、それ以前は土俵の周囲の四本柱(現在の房の位置にあった)のところに座っていた。当時の行司による「四本柱の下に検査役が座っていた時代は柱の前に行けず(検査役の正面に立って視界を遮るという理由で柱の前で立ち止まることを禁じられていた)動きにくかったが土俵下に下りてからは気にせず動けるようになって裁きやすくなった」という証言がある。土俵下に降りたことで観客からも取組が見えやすくなるという利点もあった。
 
また、1950年代までは検査役は選挙で選ばれ、力士の有資格者も投票した。元横綱の[[太刀山峯右エ門|太刀山]]が[[引退]]して年寄[[東関]]を襲名したが、まもなく廃業した理由は、検査役の選挙で落選したことが一因であった。
 
1968年の機構改革によって、勝負検査役の名称が審判委員に改められ、このとき、部長・副部長以外の審判には部屋持ち親方を充てないこととした。この規定は1978年まで続いた。
 
かつては、年寄名跡を借用している年寄でもこの職務に就任することができたが<ref>現役の年寄では[[武隈 (相撲)|武隈]]親方(元前頭・[[蔵玉錦敏正|蔵玉錦]])が[[立川 (相撲)|立川]]の年寄株を借りていた時期(1994年1月場所後から1年間)に就任している。</ref>、現在は、原則として年寄名跡を正式取得している年寄しか就任できなくなっている。横綱・大関経験者は引退の時点で委員待遇を受けているため、名跡を取得している親方の中には引退から数年で勝負審判に選任されるケースもあり、[[芝田山]]親方(元横綱・[[大乃国康|大乃国]])も襲名前の年寄・大乃国時代に勝負審判に選任されたケースがある(就任から間もなく芝田山を襲名したため、大乃国親方としての出場は1場所のみだった)。役員経験者の年寄は大抵腰掛けの形で審判委員を務めるが、[[玉ノ井]]親方(元大関・[[栃東大裕|玉ノ井栃東]]のように審判委員を経ずに副理事に昇格したケースもある。
 
1945年の6月場所では、空襲が激しく物資が不足していたため勝負検査役は[[国民服]]姿であったという。