「アントワーヌ=ジャン・グロ」の版間の差分

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==生涯==
グロの父は[[ミニアチュール]]画家で、息子が6歳になると絵を教え始めた。グロは当初から優れた才能を示した。[[1785年]]の終わりになってグロは、自身で選んで[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の画房へ入り熱心に通った。それと並行して[[コレージュ・マザラン]](かつての[[パリ大学]]のコレージュの一つ)の授業を受けた。
 
[[フランス革命]]により環境が激変したことに当惑していた父親が死に、[[1791年]]にグロは自分の収入で生きていかなければならなくなった。彼は今や自分の職にすっかりのめり込み、[[1792年]]には展覧会に出品しグランプリを狙った(不発に終わる)。しかしこの頃には、[[エコール・デ・ボザール]]の推薦で、彼は[[国民公会]]の肖像画制作の場に雇われた。革命の進行によりそれも破れ、彼は[[1793年]]に[[イタリア]]へ向けて発った。