「ラオスの歴史」の版間の差分

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その後数世紀の間、ラーオ族に関する資料が存在しておらず、どのような歴史を辿ったのかは不明であるが、[[7世紀]]頃に6つのムアンが雲南省の大理盆地に建国されている。これらのムアンを総じて{{仮リンク|六詔|zh|六诏}}あるいは六詔国と呼称する。六詔のうち最大のムアンであり、[[イ族]](中国語では「彝族」)の先祖であるといわれる鳥蕃族が支配者層とみられる[[南詔|ムアン・スイ]]は[[唐]]に対し友好関係を築くべく建国当初から貢物を贈っていたとされている。
 
ムアン・スイは強大な唐の援助を得て[[729年]]、皮羅閣王の時代に六詔を統一し、南詔王国を建国した。皮羅閣王は死後この功績により唐より「雲南王」の王位を贈られている。しかし、南詔王国の力が強大になるにつれ、唐との友好関係は次第に崩れ、唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]は2回にわたり南詔王国へ交戦を仕掛けたが、どちらも南詔王国が勝利した。南詔王国の勢力は増し、[[832年]]には{{仮リンク|[[ピュー人<!-- 言語間リンク無し -->|de|Pyu}}の[[驃国]]の城郭都市を、[[858年]]にはトンキンを、[[863年]]にはアンナンをそれぞれ攻略し、領土を広げた。しかし[[902年]]に漢人の権臣・鄭買嗣が起こしたクーデターで南詔王国は滅亡した。
 
南詔王国の滅亡を機にラーオ族は大移動をはじめ、[[インドシナ半島]]、[[ビルマ]]、[[アッサム]]などの各地に散り、ムアンを形成しはじめた。