「本間氏」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Kstigarbha (会話 | 投稿記録) m →外部リンク |
m編集の要約なし |
||
79行目:
[[File:Former the Honma residence 001.jpg|thumb|left|本間家旧本邸(山形県酒田市、2013年8月)]]
'''本間氏'''(ほんまし)は佐渡本間氏の分家で、[[山形県]][[酒田市]]を中心に[[農地解放]]による解体まで'''日本最大の地主'''だった家。'''「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」'''という歌も詠まれるほどの栄華を誇った。
酒田本間氏については「'''本間家'''旧本邸」のように、本間氏(ほんまし)ではなく'''本間家(ほんまけ)'''と通称される。▼
佐渡本間氏の一族には、[[上杉氏]]転封の折に山形へ移った者もおり、[[江戸時代]]初期、元来は海運商人であったが金融業にも進出し収益<ref group="注釈">主に、[[大阪]][[堂島米会所]]の[[先物取引]]での巨利をあてたといわれる。</ref>を土地の購入にあて田地を拡大していったほか、[[庄内藩]]や[[米沢藩]]の財政改革を支えた。またこの際には、300石の士分格となり、さらには[[北前船]]交易の隆盛もあり[[三井家]]・[[住友家]]に劣らぬ大商家となった。
[[明治維新]]後も、引き続き日本最大級の大地主ではあったものの、起業・興業にはあまり執心せず[[財閥]]化することなく、一地方企業家にとどまった。しかしながら、[[防風林]]および[[灌漑]]事業などの[[インフラ]]整備に大いに貢献し酒田の[[近代化]]に尽力した。
第二次大戦後の[[GHQ]]による[[農地改革]]の実施に伴い、1750ヘクタールあった農地はただ同然で売り渡され、本間家には4ヘクタールのみが残存した<ref name=nikkei20141027>「「コメどころ庄内」礎築く 今も残る本間家の遺産 山形県酒田市 日本人とコメ(10)」『日本経済新聞電子版』 2014年10月27日</ref>。
▲酒田本間氏については「'''本間家'''旧本邸」のように、本間氏(ほんまし)ではなく'''本間家(ほんまけ)'''と通称される。
本間家の
[[本間ゴルフ]]創業者の本間敬啓、裕朗兄弟は酒田本間氏[[庶流]]にあたる。
|