「チェリオ (イタリア)」の版間の差分
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[[File:Caelian Hill.jpg|thumb|300px|チェリオからの眺め(西側)]]
'''チェリオ'''(
[[アウレリウス城壁]]で囲まれるローマ市街地の南東に位置し、[[マッジョーレ門]]付近の高台を“付け根”とし、南西向きに長さ約2km、幅400mから500mの細長い丘<ref name="Samuel Ball Platner">Samuel Ball Platner, A Topographical Dictionary of Ancient Rome, [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Gazetteer/Places/Europe/Italy/Lazio/Roma/Rome/_Texts/PLATOP*/Caelius_Mons.html Caelius Mons], London: Oxford University Press, 1929.</ref>で、丘の“先端”にあたる部分には{{仮リンク|サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂 (ローマ)|en|Santi Giovanni e Paolo, Rome|label=サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂}}が建っている。チェリオの丘の西側には谷(サン・グレゴリオ通り)を挟んで[[パラティーノ|パラティーノの丘]]が、北側も谷(ラビカナ通りやマンツォーニ通り)を挟んで[[エスクイリーノ|エスクイリーノの丘]]がある。20世紀末時点の標高は51m{{要出典|date=2015年2月|title=Google検索しても出典が見つからなかったため}}であり、エスクイリーノの58mに次いで高い。
伝承によれば、[[王政ローマ|王政時代]]に[[トゥッルス・ホスティリウス]]が[[アルバ・ロンガ]]を破壊したときにアルバからローマに移住した人々がカエリウスの丘に住んだという。
== 古代ローマ時代の地形と位置関係 ==
{{Template:古代ローマ市の地形}}
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チェリオの丘の東端である“付け根”にはローマ時代にはプラエネスティーナ門と呼ばれていた[[マッジョーレ門]]がある。マッジョーレ門の南側には[[古代ローマ]]時代の{{仮リンク|カストレンセ円形競技場|en|Amphitheatrum Castrense}}跡と{{仮リンク|サンタ・クローチェ・イン・エルサレム聖堂|en|Santa Croce in Gerusalemme}}がある。ここからチェリオの丘の南側に沿って[[アウレリアヌス城壁]]が、[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]や[[ラテラノ宮殿]]付近を通過して{{仮リンク|メトロニア門|en|Porta Metronia}}まで続いている。
メトロニア門付近で丘は西向きに折れる形になり、南側の谷底には[[カラカラ浴場]]と[[アッピア街道]]がある。ここから西の部分には{{仮リンク|サント・ステーファノ・ロトンド聖堂|en|Santo Stefano Rotondo}}や{{仮リンク|サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂 (ローマ)|en|Santi Giovanni e Paolo, Rome|label=サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂}}など複数の教会や、{{仮リンク|チェリモンタナ庭園|en|Villa Celimontana}}などがある。チェリオの丘の尾根筋には、マッジョーレ門からサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂付近まで[[クラウディア水道]]の水道橋の遺構が残っている。チェリオの丘の西端の先、[[パラティーノ|パラティーノの丘]]との間の谷間には、[[コロッセオ|フラウィウス円形闘技場(コロッセオ)]]や[[コンスタンティヌスの凱旋門]]がある。
== 参考文献 ==
{{reflist}}
{{ローマ遺跡}}
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