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'''異端'''(いたん、[[:{{lang-en:heterodoxy|heterodoxy]]heresy}} あるいは[[: {{lang-en:heresy|heresy]])heterodoxy}})とは、
* 正統からはずれたこと<ref name="koujien_5">広辞苑 第五版 p.152【異端】</ref><ref name="digi_daijisen">デジタル大辞泉</ref>。正統orthodoxy と対立する異説<ref name="shuukyougaku_itan">東京大学出版会『宗教学辞典』pp.26-27【異端】</ref>。
* その時代において正統とは認められない思想・信仰・学説などのこと<ref name="koujien_5" />。多数から正統と認められているものに対して、少数によって信じられている宗教・学説など<ref name="digi_daijisen" />。
* [[宗教]]において、正統を自負する[[教派]]が、正統[[教理]]・[[教義]]に対立する教義を排斥するため、そのような教義をもつ者または教派団体に付す標識。
 
「異端」と一対で「'''正統'''」という概念が用いられる。
 
[[宗教学]]辞典などで、異端は正統あっての異端、つまり「異端」という概念というのは「正統」という概念があってはじめて成立するものであり、それ自体で独立に成立する概念ではない<ref name="shuukyougaku_itan" />、相関的概念である<ref name="shuukyougaku_OH">東京大学出版会『宗教学辞典』pp.485-486【正統と異端】</ref>、とされている。また哲学事典などでも「正統」と「異端」は動的な対概念である<ref name="tetsugakushisou">『岩波 哲学思想事典』 pp.921-922【正統と異端】</ref>とされている。
 
したがって、「異端」という概念だけを説明しようとしてもうまく説明できない面が多々あるので、本記事では「正統」と「異端」という概念の両方について総合的に解説しつつ、その中で「異端」という概念も解説してゆく。
 
== 概説 ==
「異端」は「正統({{lang-en|orthodoxy}}」の動的な対概念である。「正統」からはずれたものが「異端」ということになるため、正統なくして異端はありえない。正統から原初のものを「正しく受け継ぐ系統」を意味する。したがって異端の指摘をさる場合は、受け継がれる系統接続に齟齬があっり原初と見解釈に主観的差が生じたりなどで、客観性が保てなくなった主張が複数ある状態であり、特に主体性や不変性を重んじる宗教で生じやこと異端深刻な対立して扱うなることがある。[[武芸]]や[[学問]]においては、それぞれの主義や主張「異端視」排他的に捉えないこ言う<ref name="koujien_5" />が多く、[[流派]]、[[学派]]などと呼ばれる
 
人を律するための[[法律]]や[[法典]]、特に[[成文法]]では、文字化により明確にすることで本来疑義は生じず異端が生まれる余地はない。しかし、文字に表された抽象的規範ないし法則は、たとえそれ自体は一見極めて明瞭なようでも、千変万化の具体的事象に適用するに当たっては、不可避的に解釈上の疑義を生むとされる(→「[[法解釈]]」を参照)ため、成文化には解釈による齟齬が生じない徹底した努力がなされるべきであるが、この点を欠く原初の[[経典]]や[[古典]]に依拠することでも異端が生じる。
 
正統からはずれたものと見なすこと、異端として扱うことを「異端視」と言う<ref name="koujien_5" />。
 
何が正統で何が異端かについての論争は「異端論争」と呼ばれている。例えば、キリスト教で言えば、アタナシウスの教えを正統としアリウスの教えを異端としたニケーヤ会議([[第1ニカイア公会議]])は歴史的かつ典型的な異端論争である<ref name="shuukyougaku_itan" />。
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正統 / 異端の区別は、思想・[[イデオロギー]]などにおいても重大な関心事となる<ref name="shuukyougaku_itan" />。例えば、[[マルキシズム]]や[[天皇制思想]]のように[[絶対主義]]的な主張内容を含むイデオロギーなどでそうなる<ref name="shuukyougaku_itan" />。政治面では、[[スターリン主義]]が他の共産主義諸派を異端として排斥・[[粛清]]した事件がある<ref name="tetsugakushisou" />。経済面では、(普段資本主義社会の中に埋没して生活していると見えないが) [[資本主義]]社会では、資本主義的自由経済主義が自己正当化され、強調されすぎており<ref name="tetsugakushisou" />、経済に関する他の主義([[共産主義]]など)は異端視され排斥されている。反対に、たとえば北朝鮮の国内などでは[[社会主義]]ばかりが正当化され、[[自由主義]]が異端視され排斥されている。なぜ絶対主義でそれが重大な関心事なるかというと、教義を正しく理解しその唯一絶対性を守ることに熱心であると、それは同時にその絶対性を傷つけたり統一を破るものに対しては厳しい警戒の念を抱くことになるからである<ref name="shuukyougaku_itan" />。
 
<!--(宗教改革に寄与したのは異端の存在ではなく、異端とされた主張が支持を得てある程度の客観性を得たから。客観性のない異端は異端のまま。不足した誤解しやすい説明だが、今後の加筆を期待して 以下CO部分) 既成宗教の問題点を指摘し、人々のためにその変革を試みる人物は多くの場合、既成宗教から異端と見なされることになる。[[ブッダ]]であれ、[[イエス・キリスト]]であれ、[[プロテスタント]]の人々であれ、既成宗教や教派から見れば異端の存在であった。だが、異端と見なされるこうした人々の存在によって、既成宗教は改良されてきたのであった。-->
 
上述のように、正統 /異端 の用法は、宗教的領域からはじまって、[[政治]]・[[文化]]・[[経済]]などの領域にまで類比的に用いられている<ref name="tetsugakushisou" />。また同様の概念は、広く[[学問]]([[科学]])等々の領域でも存在している。
 
「異端」という語は、歴史的背景から現代でも基本的には何かしらの反感・嫌悪感を込めて使用されているが、[[芸術]]など創造性・独創性が高く評価される分野においては、<!--{{要出典範囲|「[[孤高]]」にも通じる|date=2011-8}}-->賞賛の言辞として用いられることもある。
 
上述のように絶対主義などでは異端を極端に排斥・排除してしまうわけであるが、(異端が存在することを許し)異端をつねに生んでゆく思想というのは、創造的な思想だとも言える<ref name="shuukyougaku_itan" />とも指摘されている。
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キリスト教においては「異端」は様々な用法があるが、例えば党派心、教会の統一を破るもの、不信仰、キリスト教だと称するが伝統的なキリスト教の教えを踏み外している教義・学説などを呼ぶための言葉として用いられてきた<ref name="shuukyougaku_itan" />。キリスト教においては、「異端」は、キリスト教でないものに対して使われる場合と、キリスト教の中にある異端的な説に対して使われる場合がある。
 
=== 歴史 ===
異端はすでに初代教会に存在したとされる。[[パウロ書簡]]にはたびたび分争への警告がなされている。(後)パウロ書簡である『[[コロサイの信徒への手紙|コロサイ書]]』および『[[テトスへの手紙]]1』などには、非正統的教義を信奉するものへの警告がなされている。伝承では『テトスへの手紙1』に登場するニコラオは、使徒行伝にある執事ニコラオと同一視され、彼が一派を起こして独立し、異端となったものだとする(黙示録2:15)。
 
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上述のようなことがあったが(そうした歴史の負の側面が自覚されるようになり)、最近のキリスト教では、[[エキュメニズム]](世界教会運動)の重要さが広く認知されている<ref name="shuukyougaku_OH" />。キリスト教内での運動とともに、人類の[[幸福]]という共通目標のため、他宗教と対話・連携を行う重要さも認識されるようになっており、そうした活動も[[エキュメニズム]]と呼ばれている。近年では、実際に他宗教の指導者とさかんに対話が行われており、キリスト教も含めて様々な宗教の指導者が一同に集って、人類のため、あるいは何らかの災害にあった人々のために、宗教の種類を乗り越え共同で祈りを捧げたり、共同の見解を報道に対して発表する、といった活動がさかんに行われている。
 
=== 現行の異端規定 ===
「異端」を定義する基準は、多くの教派で共有できる、[[ニカイア信条]]、[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]、[[カルケドン信条]]、[[使徒信条]]など'''[[基本信条]]'''からの逸脱である。
 
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学問の世界でも 正統 / 異端 と同様の区別や論争は存在している。
 
[[自然哲学]]においては17世紀の段階では、ほぼ全員の人々は、物というのは直接にぶつからないと互いに影響しあわない、とする考え方で世界を理解し<ref group="注釈">注. これを現代的な用語では「近接作用論」と言う。デカルトの[[渦動論]]も近接作用論である。これに対してアイザック・ニュートンが唱えた[[万有引力]]は現代的な用語では「遠隔作用論」に分類される。</ref>、それを正統なものとしていた。[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]が『[[自然哲学の数学的諸原理]]』(1687年)において[[万有引力]]という新たな考え方を提唱した時には、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]](およびライプニッツ一派の人々)は、その考え方を「[[オカルト]]」という言葉で呼びつつ排斥しようとし、大陸側とイギリス側、[[ドーバー海峡]]を挟んで論争となった。その後も数十年間、大陸側の学者たちは「物は直接ぶつからない限り互いに影響しない」とする考え方を正統なものとし、「離れていても影響する」という考え方を異質な考え方として排斥しつづけた。<ref group="注釈">フランス(つまり大陸側)の人間である[[ヴォルテール]]が、イギリスに滞在した折、重力について(宇宙について)大陸側とイギリス側で全然異なった説明が行われていることを見出して、その感想を語った書簡が残されている。</ref>
 
西欧では学問、すなわち知の探求は一般的に[[ラテン語]]等で[[哲学|philosophia、philosophie]](フィロソフィア、「知を愛すること」の意)などと呼ばれていて大学における各学問の呼称もフィロソフィアであった<ref group="注釈">18世紀の半ばすぎでも、学問のほとんどは、「philosophy of ...」のように、あくまでフィロソフィアを冠して呼ばれていた。</ref>。学問の世界ではフィロソフィアが正統なものであった。だが(おおよそ18世紀後半から19世紀半ばにかけて徐々に)そうしたフィロソフィーの中からある種の(独特の)傾向の知識があると考える人たちが増え、そのような知識を探求する人の数の増加も反映し1833年にはウィリアム・ヒューウェルが「[[科学者|scientist サイエンティスト]]」という語を造語し、自分たちをそう呼ぶことが提案された。だがそれがすぐに定着したわけではなく、その時代、大学という制度で地位が認められ社会的にも認められている学者たちは scientiaを正統的でない知識と見なしており、scientistたちの社会的な地位は概して低かった。学者たちは(現代から見れば、scientistと呼ばれるような内容の活動をしている人ですら)他人から「scientist」と呼ばれることは嫌がり「philosophe 哲学者」と呼ばれることのほうを好んだと指摘されている。scientistたちは、人々から正統性が認められるには長い年月がかかった。<ref group="注釈">このような科学者の社会的地位の状況の変遷などに関する歴史的事実は、村上陽一郎の一連の著作で解説されている。</ref>
 
このように社会から正統性を認められるのに苦労していたscientiaの側からも、すでに1830年代あたり<ref group="注釈">端的には、[[フランソワ・マジャンディー]]の1833年の文献などが指摘されている。それ以前にも若干あった、との指摘もある。</ref>から、pseudo-scientia([[疑似科学]])という呼称で、正統的でないそれを呼び分けるようなことが行われるようになった。
 
[[実証主義|ポジティヴィズム]]という、ひたすら自分の五感で直接的に知覚できることだけを重視しようとする思想が学問の世界で隆盛を極めていた19世紀末、当時、科学界で大御所とされて一大勢力を誇った[[エルンスト・マッハ]]などは、人間が直接的に知覚できることだけで科学を構築してみようと目論み、直接的に知覚できないことに関する記述は「[[形而上学]]」という言葉を用いつつさかんに排斥しようとした。ニュートン力学体系における「絶対[[空間]]」や「絶対時間」の概念を、「形而上学的な要素の残滓(のこりかす)」と呼んで否定し、排斥した(『力学の発展史<ref>翻訳本:エルンスト・マッハ『マッハ力学―力学の批判的発展史』講談社 1969 ISBN 4061236512</ref>』)。マッハらは、明らかに排斥しようとする意図をこめつつ「[[形而上学]]」という言葉を用いていた。マッハはニュートン力学の<<[[力]]>>の概念も「得体の知れないもの」として排斥し、<<力>>の概念抜きで、<<位置>>など、直接的に知覚できる要素だけで[[力学]]を再構築した<ref>『改定版 物理学辞典』 培風館【力】ISBN 456302094X</ref>。また[[原子論]]も拒絶した(原子などというものを誰も直接見たことは無かったので、見えない原子を概念として受け入れてそれを基盤に科学を組み立てることは拒絶したのである)<ref name="Boltzmann">『ボルツマンの原子―理論物理学の夜明け』青土社、2003、ISBN 4791760166</ref>。大御所のマッハは若い[[ボルツマン]]が採用した[[原子論]]や気体分子運動論も排斥し、学会で執拗に攻撃した。(ボルツマンが自殺する原因を作った、とも指摘されている)<ref name="Boltzmann" />
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科学という概念がようやく広まりつつあったころ、[[科学者]]のほとんどはアマチュアサイエンティストであった<ref name="murakami">出典:平凡社『世界大百科事典』【科学者】村上陽一郎 執筆。また村上陽一郎の一連の著作などで、そのあたりの事実は記述されている。</ref>、また社会的にも優遇されているとは言い難かった(冷遇されていた)<ref name="murakami" />。現代では、科学は(かつての西欧のキリスト教と同様に)国家からお墨付きを得て、行政的な機構にも組み込まれている<ref name="murakami" />。政府や政府系の組織によって膨大な数の科学者が雇われ生活しており、科学は一大勢力となっている。現代では、科学者でない一般の人々も含めて、多くの人々が、サイエンス([[科学]])をしばしば「正統」「正統性」というイメージと重ねつつ受けとめている、ということは多くの科学哲学者などから指摘されている。こうした社会環境においては 「科学」 /「疑似科学」 という一対の概念が、(ちょうどかつてのキリスト教が政治権力と一体となっていた西欧における、キリスト教の 正統/異端 のように)その判定の結果が大きな影響を及ぼす概念となっている。何が科学で何が科学でないか、ということに関しては、20世紀に様々な論争が行われている。これは[[線引き問題]]、と呼ばれている。
 
現代の学会などでは(特に自然科学系の学会などでは)、古参の科学者などが新奇な研究や新奇な説などを「疑似科学」(や「オカルト」)などと呼んで排斥しようとすることがある。現代の科学者にとっては、自分の研究に「疑似科学」との烙印を押されてしまうと、科学者にとって必須の、公的機関からの研究助成金などを支給してもらえなくなり、科学者生命を絶たれることを意味し、やがて職や収入も失い、その意味でも死活問題となる。<ref group="注釈">注 - こうしたことに関する指摘は数々の科学者によって記述されている。例えば日本の一例を挙げると、[[大槻義彦]]などが、科学の世界での異端排斥の空気を自著で語っている。大槻はオカルト批判者としてしばしば知られている学者ではあるが、彼自身が自著で語るところによると、本当は少年時からあくまで[[火の玉]]に興味があってそれの研究をしたくて物理学を専攻として選ぶことになったが、本当に興味のあることを正直に明かすと科学の世界で生きてゆくこともできそうもなかったので、本当の目的は伏せて仮面をかぶって過ごし、週末に独りで毎週のように火の玉研究のために出けたが、そうした活動をしていることを同窓生・教師などに少しでも知られてしまうとあまりに危険なので、学内のどんなに親しい友人にも一切知らせなかったという。また研究者となっても「オカルト」などのレッテルを貼られてしまうと、猛烈なバッシングにあい、公的な研究助成金も止められ科学者生命が絶たれてしまうことを、その実例なども見て知っており、自分の研究のテーマは(表向き)科学界に受け入れられるものを選ぶなど、苦労に苦労を重ねてアカデミーの世界でなんとか今日まで生き延びてきた、という。(大槻義彦『江原スピリチュアルの大嘘を暴く』鉄人社 2008、後半の章に生々しく語られている)。</ref><ref group="注釈">著書『「心理テスト」はウソでした。 受けたみんなが馬鹿を見た』で知られる[[村上宣寛]]なども、もともと[[ロールシャハテスト]]などの心理テストに関する(肯定的な)研究などを行っていたが、ある時学会で他の学者から、研究内容を「疑似科学」と非難されるという、学者生命が絶たれそうな危機的な出来事があり、心理テストの間違いなどを指摘するようになった、と著作などに書いている。村上宣寛の場合は、自説をすばやく放棄し、自身の過去の研究の間違いを正しただけでなく、他の学者の説を疑似科学的な要素の排斥を行う書物をさかんに書くようになったことで生き残りを果たしたが、通常は村上のようにはうまく立ち回れず、自己弁護や論争をしているうちに学会で葬り去られてしまうパターンが多い。<!--学者として排斥されそうだった危機を、反対に排斥する側に転ずることで、それ以上批判されることを回避しつつ、上手に生き残りを果たした、とも言われている。--></ref> 現代の科学者は、先輩や同僚の科学者たちから「疑似科学」「オカルト」などの言葉で異端との烙印を押され排斥されることを恐れている。
 
== 出典 脚注 ==
<references />
 
== 注釈 ==
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==参考文献==