「セロニアス・モンク」の版間の差分

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== 評価 ==
モンクの死後、その音楽は幅広い聴衆によって再発見され、モンクは今日では、[[マイルス・デイヴィス]]や[[ジョン・コルトレーン]]などと並び、ジャズの歴史にける偉大な人物の一人に数えられている。[[1988年]]、[[クリント・イーストウッド]]は、モンクの生涯と音楽についてのドキュメンタリー、 『ストレート・ノー・チェイサー』(''[[:en:Thelonious Monk: Straight, No Chaser|Straight, No Chaser]]'') を制作している。
 
== その他 ==
*[[ブルーノート・レコード]]、[[プレスティッジ・レコード]]、[[リバーサイド・レコード]]、[[コロムビア・レコード]]などのレーベルに演奏を残す。
*[[1954年]]12月24日、プレスティッジ・レコードからの要請で[[マイルス・デイヴィス]]のレコーディングに参加するが、音楽性の違いからマイルスと対立したという説が流れた。アルバム『マイルス・デイヴィス・アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ』収録の「ザ・マン・アイ・ラヴ(テイク2)」では、モンクがピアノ・ソロを途中で止め、それに対して怒ったマイルスが自分の出番でもないのに[[トランペット]]を鳴らすという、緊張感のあるやり取りが録音された。当然のことながらマイルスとモンクは二度と一緒にレコーディングしなかったものの(翌55年のニューポート・ジャズ・フェスティバルにて競演)、マイルスはモンクの作曲能力を認めた上でアルバム『[[ラウンド・アバウト・ミッドナイト]]』『[[マイルストーンズ]]』でモンクの曲を取り上げた、とされる。
*上記の共演は後に「喧嘩セッション」と呼ばれ、誰と共演しようが自分を曲げないモンクらしいエピソードとして受容されていた。だが、実際にはマイルスが後年自伝の『マイルス・デイビス自叙伝 I 』で記した通り、和声のボイシングに違和感を覚えたため「自分のソロの最中はピアノを弾かないでくれ」と指示し、モンクがそれを了承しただけであり、現在はその事がミュージシャンや評論家達の間で曲解された結果として生まれた[[デマ]]であるとする見方が強い。同書においてマイルスは曲作りにおいて大いに勉強をさせてもらい、また、その演奏も「間」の取り方や不思議なコードに感動し、大いに影響を受けたと語っている。
* [[ジャズ喫茶]]のマスターでもあった作家の[[村上春樹]]は編・訳した『[[セロニアス・モンクのいた風景]]』の自分のエッセイで「彼の音楽はたとえて言うなら、どこからともなく予告なしに現れ、何かすごいもの、理解しがたいパッケージをテーブルの上にひょいと置いて、一言もなくまたふらりと姿を消してしまう「謎の男」みたいだった」と書いている。