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{{サッカー選手
|名前=エウゼビオ
|画像=EusebioSLBEusébio 2001.jpg
|本名=エウゼビオ・ダ・シルヴァ・フェレイラ
|愛称=黒豹、黒い真珠
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|代表出場(得点)=64 (41)
}}
[[ファイル:Eusebio Benfica.JPG|thumb|220px|[[SLベンフィカ]]時代のエウゼビオ。]]
'''エウゼビオ・ダ・シルヴァ・フェレイラ'''(Eusébio da Silva Ferreira, [[1942年]][[1月25日]] - [[2014年]][[1月5日]])は、[[ポルトガル領東アフリカ]]・ロレンソマルケス(現在の[[モザンビーク]]・[[マプト]])出身、[[ポルトガル]][[国籍]]の[[サッカー選手]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。現役当時、[[日本]]のマスコミ等では「'''オイセビオ'''」と表記されていた。これは当時の日本代表コーチの[[デトマール・クラマー]]がスペルの「Eusébio」を[[ドイツ語]]読みで「オイセビオ」と読んだのが由来とされる<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2171 エウゼビオ(2)ストリートサッカーに勝利し、ボールやシューズを手に入れた少年] - 賀川サッカーライブラリー</ref>。[[SLベンフィカ]]はエウゼビオの功績を称え、毎年夏に[[エウゼビオ・カップ]]という親善大会を開催している。
 
== 人物・プレースタイル ==
[[ヒョウ|黒豹]](''The Black Panther'')または黒い真珠(''The Black Pearl'')の愛称で呼ばれた<ref name="jiji">[http://www.jiji.com/jc/v2?id=old_soccer_player_02 サッカー特集 往年の名選手【2】黒い真珠] - 時事ドットコム</ref>1960年代から1970年代を代表するフォワード。同時代にプレーした[[ペレ]]とも並び称された選手で、現役通算727試合に出場し715得点を記録した。[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]通算64試合41得点。[[2005年]]に[[ペドロ・パウレタ]]に抜かれるまで代表最多得点記録だった。また、[[国際サッカー歴史統計連盟]](IFFHS)には20世紀で最も偉大な選手の9位に選ばれるなど<ref>[http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html IFFHS' Century Elections] - rsssf.com</ref>、[[アフリカ大陸]]出身の最も偉大なサッカー選手とされている<ref>[http://www.theguardian.com/football/2010/jun/06/eusebio-africa-world-cup From Africa to posterity: How Eusébio lit up the World Cup] - The Guardian</ref>。
 
[[陸上競技|陸上]]の[[短距離走|スプリント]]でも通用すると言われるほどの爆発的な加速力を誇り<ref name="jiji"/>、屈強で柔軟な身体から放たれる強烈な[[シュート (サッカー)|シュート]]で[[ゴール (スポーツ)|ゴール]]を量産した。シュートの際、軸足を[[サッカーボール|ボール]]の前に大きく踏み出すエウゼビオのシュートフォームは[[釜本邦茂]]に強い影響を与えた。
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人格的にも非常に優れた人物で、試合終了後には相手選手を称える事を忘れず、他の選手からも愛された選手であった。
 
== 歴 ==
[[1942年]]、当時ポルトガル領だったモザンビークで生まれ、1957-60年まで[[CDマシャケネ|スポルティング・ロレンソ・マルケス]]に所属。[[1960年]]、[[ジョゼ・カルロス・バウエル]]に見出され、[[ベンフィカ]]のスカウトによってにポルトガルへ連れて来られ、直後に契約。ベンフィカ在籍中15シーズンでリーグ優勝10回、カップ優勝5回、得点王7回(1963-64、64-65、65-66、66-67、67-68、69-70、72-73)、[[ヨーロッパ・ゴールンシュー|ゴールデンブーツ]]を1969-70(42得点)、72-73(40得点)の2度獲得、戦は[[1965年ペレ]]には擁する[[バロドールトスFC]]も受賞しとの試合だっが、いきなり[[カーポルガル代表|ポルガル代表リック]]通算64試合41得点。[[2005年]]に[[ペドロ・パウレタ]]に抜かれるまで代表最多得点記録だっを達成した。
 
[[ファイル:Eusebio Benfica(1963).JPGjpg|thumb|220pxleft|[[SLベ160px|トレーニフィカ]]時代グ中のエウゼビオ(1963年)]]
ベンフィカでのデビュー戦は[[ペレ]]擁する[[サントスFC]]との試合だったがいきなり[[ハットトリック]]を達成。[[1961年]][[10月8日]]には[[サッカールクセンブルク代表|ルクセンブルク]]戦でポルトガル代表デビューを果たす。[[1962年]]の[[UEFAチャンピオンズカップ 1961-62|UEFAチャンピオンズカップ]]決勝でベンフィカは、エウゼビオの挙げた2得点を含む5点を記録し、5-3で[[レアル・マドリード]]を下して優勝した。翌年の[[UEFAチャンピオンズカップ 1962-63|UEFAチャンピオンズカップ]]でもベンフィカは決勝まで勝ち進み、エウゼビオは前半18分に先制点を決めるも、後半に[[ジョゼ・アルタフィーニ]]が2得点を挙げて最終的に1-2で[[ACミラン]]の前に敗れた。[[1966年]][[1966 FIFAワールドカップ|イングランドワールドカップ]]準々決勝・[[サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表|北朝鮮]]戦ではサッカー史に残る驚愕のプレーをやってのける。前半24分までに0-3とリードされるが前半27分、42分に得点を決め、後半56分に同点ゴール、直後の59分にはPKを決め1人で4連続得点を叩き出し試合をひっくり返してしまった。試合は更に1点を追加したポルトガルが5-3で大逆転勝利を収めた。最終順位は3位、自身も6試合出場9得点で得点王になった。その後[[1975年]]のロードアイランド・オーシャニアーズ([[アメリカ合衆国|USA]])を皮切りに北中米のクラブを渡り歩き、[[1978年]]現役を引退した。
ベンフィカ在籍中の15シーズンでリーグ優勝10回、カップ優勝5回、得点王7回(1963-64、64-65、65-66、66-67、67-68、69-70、72-73)、[[ヨーロッパ・ゴールデンシュー|ゴールデンブーツ]]を1969-70(42得点)、72-73(40得点)の2度獲得、[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]](UEFAチャンピオンズリーグは除く)での48得点は、[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]に次いで2番目の得点数となっている。[[1965年]]には[[バロンドール]]も受賞した。
 
[[1962年]]の[[UEFAチャンピオンズカップ 1961-62|UEFAチャンピオンズカップ]]決勝でベンフィカは、エウゼビオの挙げた2得点を含む5点を記録し、5-3で[[レアル・マドリード]]を下して優勝した。翌年の[[UEFAチャンピオンズカップ 1962-63|UEFAチャンピオンズカップ]]でもベンフィカは決勝まで勝ち進み、エウゼビオは前半18分に先制点を決めるも、後半に[[ジョゼ・アルタフィーニ]]が2得点を挙げて最終的に1-2で[[ACミラン]]の前に敗れた。
[[2014年]][[1月5日]]、[[心不全]]のため死去<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2014/01/05/kiji/K20140105007327170.html ポルトガルの英雄 エウゼビオ氏死去…66年W杯得点王][[スポーツニッポン]]2014年1月5日閲覧</ref>。71歳没。
 
ベンフィカでのデビュー戦は[[ペレ]]擁する[[サントスFC]]との試合だったがいきなり[[ハットトリック]]を達成。[[1961年]][[10月8日]]には[[サッカールクセンブルク代表|ルクセンブルク]]戦で[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]デビューを果たす。[[1962年]]の[[UEFAチャンピオンズカップ 1961-62|UEFAチャンピオンズカップ]]決勝でベンフィカは、エウゼビオの挙げた2得点を含む5点を記録し、5-3で[[レアル・マドリード]]を下して優勝した。翌年の[[UEFAチャンピオンズカップ 1962-63|UEFAチャンピオンズカップ]]でもベンフィカは決勝まで勝ち進み、エウゼビオは前半18分に先制点を決めるも、後半に[[ジョゼ・アルタフィーニ]]が2得点を挙げて最終的に1-2で[[ACミラン]]の前に敗れた。[[1966年]][[1966 FIFAワールドカップ|イングランドワールドカップ]]準々決勝・[[サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表|北朝鮮]]戦ではサッカー史に残る驚愕のプレーをやってのける。前半24分までに0-3とリードされるが前半27分、42分に得点を決め、後半56分に同点ゴール、直後の59分にはPKを決め1人で4連続得点を叩き出し試合をひっくり返してしまった。試合は更に1点を追加したポルトガルが5-3で大逆転勝利を収めた。最終順位は3位、自身も6試合出場9得点で得点王になった。その後[[1975年]]のロードアイランド・オーシャニアーズ([[アメリカ合衆国|USA]])を皮切りに北中米のクラブを渡り歩き、[[1978年]]現役を引退した。
 
[[1975年]]のロードアイランド・オーシャニアーズ([[アメリカ合衆国|USA]])への移籍を皮切りに北中米のクラブを渡り歩き、[[1978年]]に現役を引退した。
 
[[ファイル:EusebioSLB.jpg|thumb|180px|[[エスタディオ・ダ・ルス]]に建てられている銅像]]
[[2014年]][[1月5日]]、[[心不全]]のため死去<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2014/01/05/kiji/K20140105007327170.html ポルトガルの英雄 エウゼビオ氏死去…66年W杯得点王][[スポーツニッポン]]2014年1月5日閲覧</ref>。71歳没。エウゼビオの死に、ポルトガルサッカー界だけでなく[[アニーバル・カヴァコ・シルヴァ]][[大統領]]や[[ペドロ・パッソス・コエーリョ]][[首相]]らも追悼のコメントを残した<ref>[http://jp.uefa.com/memberassociations/association=por/news/newsid=2041878.html 元ポルトガル代表のエウゼビオ氏が死去] - UEFA.com</ref>
 
== 所属クラブ ==
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
* {{IMDb name|1595864}}
* [http://www.nasljerseys.com/Players/E/Eusebio.htm NASL/MISL stats]
* {{NFT player|pid=17503}}
* {{FIFA player|39547}}
 
{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録|titlestyle = background: gold;