「ヒトラー内閣」の版間の差分

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[[1933年]][[1月30日]]に大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]は、ヒトラーを[[ヴァイマル共和国]]の第15代[[ドイツの首相|首相]]に任命した。この発足時点のヒトラー内閣は、以下の通り[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)と保守派・貴族の連立内閣であった。ナチ党から入閣したのは首相ヒトラー、内相フリック、無任所相ゲーリングの3人のみであり、施政一般に対して、副首相[[フランツ・フォン・パーペン]]の承認がなければ大統領はこれを裁可しないとの条件が付されていた。パーペンは「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語り<ref>[[エヴァルト・フォン・クライスト=シュメンツィン]] ([[:en:Ewald_von_Kleist-Schmenzin|en]])「Die letzte Möglichkeit」よりの引用、トーランド、124p</ref>、内閣の実権を握るつもりでいた。当時の内閣は合議制であり、首相に突出した実権が与えられていたわけではなかった。
 
しかしヒトラーは、即座に[[国会 (ドイツ)|国会]]を解散し、2月の[[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]後の大統領緊急令による野党の弾圧、3月の[[1933年3月ドイツ国会選挙|総選挙]]後の[[全権委任法]]成立等を通じて次第に独裁権力を掌握し、4月ごろには「内閣の中で指導者の権威が完全に確立されるに至った。もはや表決が行われる事はない。指導者が決定を下すのだ。」とゲッベルスが日記に記すほどになった<ref>南、指導者-国家-憲法体制における立法(1)、4月22日のゲッベルス日記</ref>。以降、非ナチ党員の閣僚は辞職するか実権を失った。[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]は1933年から1945年まで蔵相を勤めたが、最後にヒトラーと面会したのは1942年であった。またポストによっては名誉職に過ぎないものもあった。
 
マハトエアグライフング([[ナチ党の権力掌握]])を通じて、ナチ党とドイツ国家は一体化が進められた。その結果、ナチ党の有力者で内閣の大臣を兼ねた者は強大な政治的権限をふるった(国民啓蒙・宣伝大臣ゲッベルス、航空大臣ゲーリング、等)。中には、ナチ党組織を権力基盤としつつ、類似分野を担当する政府機関と権力闘争をくりひろげ、ついには後者を圧倒して内閣の大臣職を手中に納めた者(親衛隊全国指導者で内務大臣を兼任することとなったヒムラー、ドイツ労働戦線指導者で無任所大臣を兼任することとなったライ、等)もいる。一方、内閣の大臣であっても、ナチ党に基盤を持たない者は政治的実権を持たず、その大臣号も名誉職や事務担当者に過ぎないものとなった(大蔵大臣フォン・クロージク、等)。ただし、ナチ党に確固たる基盤を持たない者であっても、最高指導者ヒトラーの信頼を受けてさえいれば、その度合いに比例して強大な権力をふるうことができた(軍需大臣シュペーア、外務大臣リッベントロップ、等)。ナチ党の幹部ではあってもヒトラーからの信任が薄い者は、大臣としての権限は充分ではなかった(東部占領地域大臣ローゼンベルク、等)。
 
== 発足時のヒトラー内閣 ==
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*[[副首相]] - [[フランツ・フォン・パーペン]](元[[ドイツ中央党|中央党]]・元首相・男爵)
*[[外務大臣]] - [[コンスタンティン・フォン・ノイラート]](男爵・職業外交官)
*[[内務大臣]] - [[ヴィルヘルム・フリック]](ナチ党、同党国会議員団長
*[[大蔵大臣]] - [[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]](伯爵)
*[[法務大臣]] - [[フランツ・ギュルトナー]]([[国家人民党]])
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*[[労働大臣]] - [[フランツ・ゼルテ]]([[鉄兜団]]指導者)
*[[国土交通省|運輸大臣]]・[[郵政大臣]] - [[パウル・フライヘア・フォン・エルツ・リューベナッハ]](男爵)
*[[無任所大臣]] - [[ヘルマン・ゲーリング]](ナチ党[[プロイセン]]州内相、国会議長
 
== ヒトラー内閣歴代閣僚 ==
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*[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]](1938年 - 1945年、ナチ党)
;内務大臣
*[[ヴィルヘルム・フリック]](1933年 - [[1943年]]、ナチ党国会議員団長
*[[ハインリヒ・ヒムラー]](1943年 - 1945年、ナチ党[[親衛隊全国指導者]]
;大蔵大臣
* [[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]](1933年 - 1945年、伯爵、後にナチ党入党)
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:;食糧大臣(1944年 - 1945年)
*アルフレート・フーゲンベルク(1933年、経済大臣兼任)
*[[リヒャルト・ヴァルター・ダレ]](1933年 - [[1944年]]、ナチ党農政全国指導者
*[[ヘルベルト・バッケ]](1944年 - 1945年、ナチ党)
;[[国民啓蒙・宣伝省|国民啓蒙・宣伝大臣]](1933年3月13日新設)
*[[ヨーゼフ・ゲッベルス]](1933年 - 1945年、ナチ党宣伝全国指導者、同党[[ベルリン大管区指導者]]
;[[ドイツ航空省|航空大臣]](1933年5月5日新設)
*ヘルマン・ゲーリング(1933年 - 1945年、ナチ党、空軍総司令官
;科学・教育・国民文化大臣([[:de:Reichsministerium für Wissenschaft, Erziehung und Volksbildung]])(1934年5月1日新設)
*[[ベルンハルト・ルスト]](1934年 - 1945年、ナチ党南ハノーファー=ブラウンシュヴァイク大管区指導者
;宗教大臣([[:de:Reichsministerium für die Kirchlichen Angelegenheiten]])(1935年7月16日新設)
*[[ハンス・ケルル]]([[:de:Hanns Kerrl]])(1935年 - [[1941年]]、ナチ党)
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*[[アルベルト・シュペーア]](1942年 - 1945年、ナチ党・建築家)
;東部占領地域大臣([[:de:Reichsministerium für die besetzten Ostgebiete]])([[1941年]]12月17日新設)
*[[アルフレート・ローゼンベルク]](1941年 - 1945年、ナチ党対外政策全国指導者
;無任所大臣
*ヘルマン・ゲーリング(1933年、ナチ党、[[プロイセン]]州首相)
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*ヒャルマル・シャハト(1937年 - 1943年、前経済大臣)
*コンスタンティン・フォン・ノイラート(1938年 - 1945年、前外務大臣、ナチ党、[[ベーメン・メーレン保護領]]初代総督)
*[[アルトゥール・ザイス=インクヴァルト]](1938年 - 1945年、ナチス・党、元オーストリア首相、オランダ国家弁務官
*ヴィルヘルム・フリック(1943年 - 1945年、前内相、ナチ党、ベーメン・メーレン保護領2代総督)
*[[ロベルト・ライ]](1945年、ナチ党・[[ドイツ労働戦線]]指導者)