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== 生い立ちと経歴 ==
ヘイは[[インディアナ州]][[セーレム]]に生まれる。1858年に[[ブラウン大学]]を卒業した後、[[エイブラハム・リンカーン]]の[[秘書]]としてその経歴が始まった。彼の日記および[[南北戦争]]中に著した書籍は歴史の基礎的資料である。彼はリンカーンによるビクスビー未亡人(南北戦争で息子たちを亡くした)への手紙の本当の作者として考えられている。リンカーンがフォード劇場で狙撃されたとき、ヘイはその場に居合わせた。ヘイは同僚の秘書、ジョン・G・ニコレイと共に10巻に及ぶリンカーンの伝記(1890年、出版)を著した。[[1897年]]に友人であった[[ウィリアム・マッキンリー]]が大統領に就任すると、ヘイは[[在イギリスアメリカ合衆国大使|駐イギリス大使]]に任命される。1898年8月には国務長官に任命され、[[米西戦争]]の講和条約であるパリ条約(1898年)の締結に尽力した。
 
マッキンリーの死後、ルーズベルトが大統領職を引き継いだ後もヘイは国務長官として、中米政策に重要な役割を果たした。駐イギリス大使の経験から親イギリス路線を執り、両国間の相互理解を深めた。そして、[[パナマ運河]]建設の障害となっていた[[クレイトン・ブルワー条約]]に替わり、1901年11月にイギリスとの間に[[ヘイ・ポーンスフット条約]]を締結した。この条約により、アメリカはパナマ地峡の運河を建設・運営・保護に関する同意を得た。1903年、ワシントン駐在のコロンビア代理大使との間に、運河地帯を100年契約で賃貸する[[ヘイ・エルラン条約]]を調印することになったが、経理上の問題と主権の譲渡に不満のあったコロンビア議会は、これを批准しなかった。手詰まりな状況に、パナマ地峡をコロンビアから離脱・独立させようという企てがパナマの内外から持ち上がり、1903年11月の[[パナマ#コロンビアからの第二の独立|パナマ独立戦争]]に艦隊を送り支援した。そして、独立したパナマ政府と実質的な主権を放棄した永代賃借の条約を結んだ。
 
== 門戸開放宣言 ==
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ブラウン大学のジョン・ヘイ図書館は[[ジョン・ロックフェラー2世]]によって[[1964年]]に建造され、[[1910年]]から集められたコレクションが収蔵された。[[1971年]]に物理化学書がニュー・サイエンス図書館へ移され、ジョン・ヘイ図書館はもっぱら特別コレクションのための収蔵所となった。
 
==参考文献==
サムエル・モリソン 『アメリカの歴史 4』西川正身 翻訳監修、集英社文庫、1997年、pp292-297、ISBN 4087603172
 
== 関連項目 ==
* [[門戸開放通牒]]
* [[門戸開放政策]]
* [[棍棒外交]]
 
== 外部リンク ==