「シモン・ボリバル」の版間の差分

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== 独立後 ==
=== ラテンアメリカ諸国連合 ===
南アメリカ大陸のすべてのスペイン領が独立したことで独立戦争が終結すると、ボリバルは1824年末、南アメリカ大陸の新独立国家群に独立保全のための協議を行うよう提案した。[[1826年]]にこの会議は実現の運びとなり、南北両アメリカ大陸の結節点となる大コロンビア共和国の[[パナマ市]]において6月22日から7月15日まで{{仮リンク|パナマ議会|es|Congreso de Panamá|en|Congress of Panama}}が開催された。会議の参加国は大コロンビア、ペルー、[[中央アメリカ連邦]]、[[メキシコ]]の4か国だった。オブザーバーとして[[イギリス]]と[[オランダ]]が参加したが、[[アメリカ合衆国]]は招かれたものの会議に間に合わず結局欠席となった。南アメリカ南部のチリ、アルゼンチン、[[ブラジル]]はボリバルの影響力拡大を懸念して参加せず、孤立していた[[パラグアイ]]にはそもそも招待状が送られなかった。この会議においては参加各国の相互防衛条約が締結され、また市民権の相互承認や域内戦争の禁止、奴隷貿易の禁止などが可決された<ref>[[国本伊代]]・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』p217 エリア・スタディーズ、[[明石書店]] 2004年</ref>が、この条約は大コロンビアの議会しか批准せず、ボリバルの構想した相互防衛の枠組みは成立しなかった。
[[1826年]]に{{仮リンク|パナマ議会|es|Congreso de Panamá|en|Congress of Panama}}を開催。
 
=== 内乱 ===
成立した大コロンビアであったが、国内の3地域(ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、キト)の対立は激しく、特にベネズエラとヌエバ・グラナダ間の対立は先鋭化するばかりだった。ベネズエラ地域の実力者であるホセ・アントニオ・パエスと議会との対立は先鋭化し、これをおさめるためにボリバルがパエスに融和的な態度を示すと、ヌエバ・グラナダを基盤とするサンタンデールが不満を募らせていった。[[1827年]]、大コロンビアのベネズエラとヌエバ・グラナダの間で内乱が起きると、鎮圧のためボリバルはリマを去った。ボリバルは、あくまで大コロンビア、ラテンアメリカ連合の維持を理想とした。[[1828年]]4月に大コロンビア国民会議を招集し、選挙を実施。憲法を停止して、独裁権を手中に収める。しかし、副大統領のサンタンデルによるボリバル暗殺計画や、自身の健康状態の悪化などにより事態は流動的になり始めた。
 
[[1829年]]、現在のエクアドルにあたる地域の領有を要求した[[ペルー軍]]がグアヤキルに侵入した({{仮リンク|グラン・コロンビア=ペルー戦争|en|Gran Colombia–Peru War}})。これはスクレによって撃破されたが、もはやボリバルの権威の低下は誰の目にも明らかだった。さらにボリバル配下の将軍[[ホセ・マリア・コルドバ]]が反乱を起こす。これもまた鎮圧されたが、1829年の秋には、ベネズエラでホセ・アントニオ・パエスが大コロンビアから分離独立を宣言し、[[1830年]]に入るとまずベネズエラが正式に完全分離独立を宣言、続いてキトとグアヤキルがエクアドルとして独立した。
 
=== 最期 ===
1830年1月、ボリバルは自身の政治的な役割の終焉を悟り、全ての地位を放棄してヨーロッパへと向かうことを決意する。[[マグダレナ川|マグダレーナ川]]を下っている最中にボリバルの後継者と目され、ボリバルの危機を何度も救ったスクレ陸軍総監が、選出されたエクアドル大統領の任に就く際の移動中に暗殺されたことを聞き、深い喪失感に襲われた。カリブ海の港町[[サンタ・マルタ (コロンビア)|サンタ・マルタ]]まで来たところでボリバルは急に[[腸チフス]]が悪化し、ヨーロッパ行きを取りやめた。サンタ・マルタのスペイン人の邸宅で療養生活をしていたが、同年12月17日に死去した。ボリバルの死後、[[1831年]]に[[ラファエル・ウルダネータ]]将軍の独裁が崩壊すると、残存部の[[ヌエバ・グラナダ共和国]]がコロンビア共和国から独立し、ボリバルのラテンアメリカ統合の夢は完全に敗れた。
 
植民地時代にはアメリカ大陸でも有数の大富豪だったボリバル家も、シモンが革命の理念とハイチ人との約束のために自らの奴隷を解放し、農園や鉱山を売却し、私財のほぼ全てを投じて解放戦争を続けたために死の直前には財産はほとんど何も残っておらず、シモンの死によってボリバル家は完全に没落した。その一方でベネスエラのパエスやエクアドルの{{仮リンク|フアン・ホセ・フローレス|en|Juan José Flores|label=フローレス}}、ペルーの{{仮リンク|ホセ・デ・ラ・マール|es|José de La Mar|en|José de la Mar|label=デ・ラ・マール}}のように、かつての部下だった将軍達の多くはボリバルを裏切り、解放戦争によって得た権力で私財を蓄え、各国の寡頭支配層を形成した。後世への戒めか、死の間際に「革命の種子を播こうとする者は、大海を耕す破目になる」という言葉を残している。