「サーバートン」の版間の差分

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(米三冠馬。英語版en:Sir Barton(16:09, 14 December 2005 Ted Wilkes )の訳を一部含む)
 
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{{競走馬P|
画 = [[Image:SirBarton.jpg|230px|center]]<span style="font-size:small">現役時のサーバートン</span>|
名 = サーバートン|
性 = [[牡馬|牡]]|
金 = 116,857[[USドル|ドル]]|
}}
'''サーバートン'''(''Sir Barton'')は、[[1918年]]から[[1920年]]にかけて活躍した[[アメリカ合衆国]]の[[競走馬]]である。[[1919年]]に史上初の現アメリカ[[三冠 (競馬)|三冠]]を達成した。
 
サーバートンは[[19191916年]]に[[ケンタッキー州]]で、ジョン・E・マッデンとビビアン・A・グーチによって産さ。父スターシュートは[[イギリス]]産さ後アメリカに渡り[[リーディングサイアー]]5回を獲得した大[[種牡馬]]であり、母はレディースターリングであった。というそこそこの良血であり、った。生産者であるマッデンとグーチはこの仔馬を[[1918年]]に[[カナダ]]人のビジネスマン、ジョン・ケネス・ラソン・ロスに1万ドルで販売している。そしてロスは調教師にH.G.ベドウェルに[[調教]]任命し受けることになった。
 
デビュバートンは2歳の6月にデビュー出走したトレモントステークス。ここを6着に敗退すると以後も惨敗続きで[[フューチュリティステークス]]で2着に入っているもが唯一戦績である、それ以外は全て大差で負けるとう芳しく無いものであった。
== 戦績 ==
サーバートンは2歳の6月にデビューしたが、惨敗続きで[[フューチュリティステークス]]では2着に入っているものの、それ以外は全て大差で負けていた。
 
しかし、翌年サーバートンは[[ケンタッキーダービー]]に出走し2番人気に押されていが、ことになる。これは僚馬ビリーケリーが注目されていたからであり(欧米では馬主単位で[[投票券 (公営競技)|馬券]]が発行されるため、ビリーケリーとサーバートンで1つの馬券になる)、サーバートンはビリーケリーの[[ペースメーカー]]に過ぎなかった。だが、結果はサーバートンがビリーケリーを5馬身差突き放し圧勝してしまった。ケンタッキーダービーがサーバートンの初勝利である。そして4日後に[[プリークネスステークス]]を4馬身差で連勝、さらに[[ベルモントステークス]]にも5馬身差で楽勝、史上初の現アメリカ三冠を達成した。
 
ただしこの頃のアメリカは現在の三冠体系とは違い[[ウィザーズステークス]]、ベルモントステークス、[[ローレンスリアライゼーションステークス]]の3レースを三冠としていたためサーバートン自身が三冠馬と呼ばれていたわけではないが、サーバートンはプリークネスステークスとベルモントステークスの間にウィザーズステークスも勝ち取っており、さらに現三冠に当る競走も既に相当の格を得ていたためこの年の米年度代表馬に選ばれている。
 
サーバートンは4歳になっても活躍し、サトラガハンデキャップではレコードで[[エクスターミネーター]]を破っている。だが、サーバートンの翌年に旧アメリカ三冠を達成し無敵を誇っていた[[マンノウォー]]との新旧三冠馬による[[マッチレース]]となったケニルワースパークゴールドカップでは、マンノウォーに敗れてしまった。このため現在サーバートンが最強馬と呼ばれることは皆無である。レースはマンノウォーが先行し、その1馬身後方をサーバートンが追いかける展開、だがその差は縮まる事はなくマンノウォーが7馬身差でゴールした。サーバートンにとっては完敗であった。そしてその後3戦したが3,3,2着と勝てず引退している。
 
=== 年度別競走成績 ===
 
== 引退後 ==
引退後は種牡馬入りしたがそれほどの成功を収めることはなかった、代表産駒は[[ケンタッキーオークス]]に優勝したイースターストッキングである。その後[[1937年]]に死亡し、[[ララミー山脈]]の山麓にある[[牧場]]に埋葬された。現在サーバートンを記念するメモリアルが[[ワイオミング]]のコンバースカウンティーのワシントンパークにある。
 
* 1957年 - 米競馬の殿堂入り。
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