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| 受賞歴 = [[1999年]] [[ゴールデン・アロー賞]] 芸能賞
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'''志村 けん'''(しむら けん、[[1950年]]<ref>1951年生まれ説あり</ref>[[2月20日]] - )は、[[日本]]の[[コメディアン]]、[[お笑いタレント]]、[[司会者]]。[[ザ・ドリフターズ]]メンバー。本名、'''志村 康徳'''(しむら やすのり)。旧芸名および[[台湾]]での表記は、'''志村健'''。
 
[[イザワオフィス]]所属。身長166.7[[センチメートル|cm]]、体重65.3[[キログラム|kg]]<ref>『人気者でいこう!』で測定 {{いつ|date=2012年5月}}</ref>。血液型[[ABO式血液型|A型]]。愛称は「志村」「けんさん」「しむけん」「けんちゃん」「ケン坊」など。
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== 来歴 ==
=== 付き人からドリフ入り ===
[[1950年]]<ref>1951年という説もあり</ref>、小学校[[教諭]]であった父親の三男として[[東京都]][[北多摩郡]]東村山町(現在の[[東村山市]])に生まれ、厳格な家庭に育つ。本名の「康徳」は、父親が[[徳川家康]]を崇敬していたことにちなみ、頭の「徳」と尻の「康」をとり、逆さにした<ref>『[[志村けんのだいじょうぶだぁ]]』より {{いつ|date=2012年5月}}</ref>。芸名の「けん」は、父親の名前に由来する。
 
幼い頃、厳格な父親の支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時まだ珍しかった[[テレビジョン|テレビ]]のお笑い番組で[[漫才]]や[[落語]]を見ていた時だけは、嫌な気持ちを忘れることができた。その時だけは、厳格な父親も笑いをこらえながらテレビを見ていたという。そのような体験から、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]の世界に憧れを抱くようになった。
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[[加藤茶]]の付き人となる<ref>[[住友建機]]のコラム「Power Talk」取材時の本人の証言、及び加藤茶の証言による</ref>が、1年余りで一度脱走<ref>本人の著書では、社会勉強をするため他の付き人に伝言して辞めたというが、いかりやの許可をもらったわけではないため、脱走扱いとなっている。</ref>し、[[バーテンダー]]などのアルバイトをしたりしていた。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。志村は運転免許を持っていないため、無名の付き人だったにもかかわらず、当時国民的人気者の加藤が運転する車の助手席にふんぞりかえったまま帰宅し、加藤を差し置いて母親に晩御飯を用意してもらったり、先に風呂に入ったりという大物ぶりを発揮していた。
 
[[1972年]]、22歳<ref>21の説もあり</ref>の時に[[井山淳]]とお笑いコンビ・[[マックボンボン]]を結成し、芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『[[ぎんぎら!ボンボン!]]』(『[[シャボン玉ホリデー]]』の後番組で、後に『[[シャボン玉ボンボン]]』に改題)に出演が決まり、幸運なテレビデビューとなるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。[[12月31日]]放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退([[失踪]])。コンビはその後、[[自衛隊]]出身の福田正夫を相方に迎え心機一転を図るが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせもまったく身が入らない有様で、結局、自然消滅へと向かう(この頃の芸名は「志村健」の表記が多かった。なお「志村健」の芸名は、現在[[台湾]]で使用されている)。志村はその後ドリフターズの付き人に戻り、[[1973年]]12月、「メンバー見習い」の扱いでドリフに加入する<ref>荒井注は[[1973年]]10月に脱退を表明しており、すでに、「迷惑をかけないために、半年間、御礼奉公して辞める」との意思をいかりや始め周囲には伝えていた。志村の「見習い」昇格は事実上、正式加入までの移行期間として設けられたものだった。</ref>。
 
[[1974年]][[3月31日]]をもって[[荒井注]]が脱退し、[[4月1日]]に正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバーの加入を検討していたが、加藤の推薦により若手の志村が起用された<ref>ただし、いかりやの著書『だめだこりゃ』によれば、いかりやとマネージャーの[[井澤健]]ともに「志村しかいない」と考えていたとの記述があり、これらの経緯については矛盾がある。</ref>。当時、志村は<ref>24歳23歳の説もあり</ref>だった。
 
=== 「東村山音頭」でヒット ===