「安倍頼時」の版間の差分

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[[天喜]]4年([[1056年]])、頼義が任期満了で陸奥守を辞める直前、[[多賀城]]へ帰還中の頼義軍の部下の営所を何者かが夜襲したとされ、その嫌疑人として頼義が頼時の嫡子[[安倍貞任|貞任]]の身柄を要求した([[阿久利川事件]])。頼時は頼義の要求を拒絶して挙兵し、頼義に頼時追討の[[宣旨]]が下った。
 
天喜5年([[1057年]])7月、反旗を翻した一族と見られる豪族[[安倍富忠]]説得するために頼時は北上したが、仁土呂志辺においてに富忠勢に奇襲を受け、流れ矢を受けて深手を負った。重傷の身で[[鳥海柵]]まで退却したが、本拠地の[[衣川]]を目前に鳥海柵で没し、貞任が頼時の跡を継いだ。
 
なお、『[[今昔物語集]]』等を根拠として、頼時自身は反乱の首謀者ではなく蝦夷反乱に同調しようとしたとの嫌疑が掛けられたことに伴うものである等の見解が出されている。