「シモン・ボリバル」の版間の差分

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ヌエバ・グラナダのカルタヘナで、スペインへの徹底抗戦を誓う'''カルタヘナ宣言'''を発表。これに共感したヌエバ・グラナダの市民はボリバルをベネズエラ解放遠征軍司令官に任命。[[ボゴタ|サンタフェ・デ・ボゴタ]]を中心とする{{仮リンク|クンディナマルカ共和国|es|Estado Libre de Cundinamarca|en|Free and Independent State of Cundinamarca}}([[1810年]] - [[1815年]])の指導者{{仮リンク|アントニオ・ナリーニョ|es|Antonio Nariño|en|Antonio Nariño}}の支援を得て[[1813年]]、ボリバルはベネズエラ進攻を指揮して5月23日にメリダに入り、''El Libertador''(解放者)と呼ばれた。8月6日にカラカスを奪回し、{{仮リンク|ベネスエラ第二共和国|en|Second Republic of Venezuela}}([[1813年]] - [[1814年]])の成立を宣言した。
 
兵力劣勢な共和派が成功したのは、軽快な機動力と優れた戦術によるものであった。だがカラカスに入り込むと、ボリバルの足は縛られた。強力な王党派軍はたいして減っておらず、白人クリオーリョへの反感を利用して地方の[[メスティーソ]]や[[インディオ]]などの民衆から兵を集め、カラカスを締め上げた。カラカス市民は共和派支持を鮮明にしており、その頃荒れ狂っていた王党派の虐殺から逃れてきた難民でカラカスの人口は膨れ上がった。そのような情勢で軽々しく市を放棄すると、味方の市民が殺される恐れがあった。[[1814年]]に共和派の軍は防衛戦で消耗したあげく、分かれて脱出した。ボリバルが市民を引きつれて東に脱出すると、スペイン軍は再びカラカスを占領した。さらにその頃ヌエバ・グラナダではボゴタが陥落し、クンディナマルカ共和国が崩壊していた。
 
さらにその頃ヌエバ・グラナダでは、[[トゥンハ]]に首都を置き連邦制を主張するヌエバ・グラナダ連合州とボゴタに拠点を置き中央集権体制を目指すクンディナマルカ共和国が対立し、独立勢力同士で内戦状態となっていた。ボリバルは カルタヘナへと戻ると、ヌエバ・グラナダ連合州の軍を率いてボゴタを攻略し、両勢力を統合した。ヌエバ・グラナダ連合州は首都をボゴタに移し、さらに[[サンタ・マルタ]]のスペイン軍を包囲するが、根拠地だったカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れたため、[[1815年]]にイギリス領[[ジャマイカ]]へと亡命した。亡命後、スペイン軍は兵力を増強して独立軍の拠点を次々と陥落させ、1815年にはカルタヘナも陥落した。
 
=== ジャマイカ書簡 ===
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[[1819年]]12月、ボリバルは{{仮リンク|アンゴストゥーラ議会|es|Congreso de Angostura|en|Congress of Angostura}}でヌエバ・グラナダ共和国の大統領と軍指揮官になった。ボリバルは議会にヌエバ・グラナダとベネズエラを合併した新しい国家の創設を要請した。直ちに現在のベネズエラ・コロンビア・[[パナマ]]・[[エクアドル]]を合わせた地域がコロンビア共和国(後世呼ばれる[[大コロンビア]])として宣言された。しかし、ベネズエラと[[キト]]と[[グアヤキル]]は依然としてスペインの支配下であった。
 
[[1820年]]にボリバル軍とスペインの間で6ヵ月の休戦条約が結ばれるが、休戦期間終了後間もなく、ボリバルとスペイン軍の間で戦闘が起こる。 ベネズエラに侵攻したボリバルは[[1821年]]6月の{{仮リンク|カラボボの戦い|en|Battle of Carabobo}}で勝利し、故郷カラカスを奪還する。ボリバルは、1821年5月に開催された大コロンビアの憲法起草のための{{仮リンク|ククタ議会|es|Congreso de Cúcuta|en|Congress of Cúcuta}}に招集され、初代コロンビア共和国の大統領として指名を受けた。そして国内が一応固まる様子をみせると、内政はそれまで副官を務めていたヌエバ・グラナダ人の副大統領[[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル]]以下に任せて、ボリバルは大コロンビア領に理論的には含まれるもののまだスペインの統治下にあるキト、そして王党派の牙城[[ペルー]]方面の解放に向かった。
 
== ペルー解放と独立戦争の終結 ==
=== キト攻略 ===
[[1822年]]、ボリバルはエクアドル方面の攻略を本格化させる。ボリバルの率いる部隊が山間部からエクアドルに侵入し、ボリバルの部下であったベネズエラ人の[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]が太平洋側からエクアドルに進んだ。スクレの部隊は 1822年5月24日に{{仮リンク|ピチンチャの戦い|en|Battle of Pichincha}}で勝利を収め、翌日にはキトに入城を果たした。ボリバルもキトに合流し、ここにエクアドルの解放を果たした。また、ここでボリバルの「永遠の愛人」[[マヌエラ・サエンス]]と出会うことになった。
 
[[アルゼンチン]]の[[ホセ・デ・サン・マルティン]]将軍は、チリの独立指導者[[ベルナルド・オイヒンス]]や、[[スコットランド]]の元[[英王立海軍]]軍人[[トマス・コクラン]]らの力を借りて、アルゼンチンの[[メンドーサ]]から'''{{仮リンク|アンデス山脈越え|en|Crossing of the Andes}}'''を持って[[チリ]]を解放し、そこから海路ペルーまで進み、初代ペルー護国官となって南から解放戦争を進めていた。しかし、スペイン軍とペルー副王のラセルナは抵抗を続けてサン・マルティンを翻弄し、ペルー第一共和国の崩壊が迫っていた。
 
=== グアヤキル会談 ===
[[ファイル:Guayaquil LaRotonda Bolivar SanMartin.JPG|thumb|250px|[[グアヤキル]]に並び立つ、二人の解放者とラテン・アメリカの解放と統一の記念碑]]
このころ、[[アルゼンチン]]の[[ホセ・デ・サン・マルティン]]将軍は、チリの独立指導者[[ベルナルド・オイヒンス]]や、[[スコットランド]]の元[[英王立海軍]]軍人[[トマス・コクラン]]らの力を借りて、アルゼンチンの[[メンドーサ]]から'''{{仮リンク|アンデス山脈越え|en|Crossing of the Andes}}'''を持って[[チリ]]を解放し、そこから海路ペルーまで進み、初代ペルー護国官となって南から解放戦争を進めていた。しかし、スペイン軍とペルー副王のラセルナは抵抗を続けてサン・マルティンを翻弄し、ペルー第一共和国の崩壊が迫っていた。
サン・マルティンは大コロンビア軍に支援を求めようとした。ボリバルはこの思わぬもう一人の解放者に出くわしたことを喜び、解放されたグアヤキルで1822年7月26日に{{仮リンク|グアヤキル会談|es|Entrevista de Guayaquil|en|Entrevista de Guayaquil}}を行った。会談の内容は資料が残っておらず詳細は不明であるが、グアヤキル地方の帰属問題とペルーのスペインからの独立の仕方であったといわれている。ボリバルが共和制を望んだのとは対照的に、サン・マルティンはヨーロッパから王を導入して[[立憲君主制]]を導入することを望んでいたが、ナポレオンの戴冠によりフランス革命が大失敗したと考えていたボリバルにとって、これは到底受け入れることのできない条件だった。結局、ボリバル軍に加わりたいというサン・マルティンの申し出もボリバルが断ると、サン・マルティンはアルゼンチンに帰国してしまった。
 
このため、サン・マルティンは大コロンビア軍に支援を求めようとした。ボリバルはこの思わぬもう一人の解放者に出くわしたことを喜び、解放されたグアヤキルで1822年7月26日に{{仮リンク|グアヤキル会談|es|Entrevista de Guayaquil|en|Entrevista de Guayaquil}}を行った。会談の内容は資料が残っておらず詳細は不明であるが、グアヤキル地方の帰属問題とペルーのスペインからの独立の仕方であったといわれている。ボリバルが共和制を望んだのとは対照的に、サン・マルティンはヨーロッパから王を導入して[[立憲君主制]]を導入することを望んでいたが、ナポレオンの戴冠によりフランス革命が大失敗したと考えていたボリバルにとって、これは到底受け入れることのできない条件だった。結局、ボリバル軍に加わりたいというサン・マルティンの申し出もボリバルが断ると、サン・マルティンはアルゼンチンに帰国してしまった。
 
=== ペルー解放 ===