「シモン・ボリバル」の版間の差分

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=== 内乱 ===
成立した大コロンビアであったが、ペルーやボリビアの解放戦争の戦費負担などで国内経済は疲弊しており、また国内の3地域(ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、キト)の対立は激しく、特にベネズエラとヌエバ・グラナダ間の対立は先鋭化するばかりだった。ベネズエラ地域の実力者であるホセ・アントニオ・パエスと議会との対立は1824年以降先鋭化し、これをおさめるためにボリバルがパエスに融和的な態度を示すと、ヌエバ・グラナダを基盤とするサンタンデールが不満を募らせていった。ボリバルが独立戦争時の経験などから中央集権を求め、カトリック教会を重視し、大統領については終身制が望ましいと考えていたのに対し、サンタンデルは地方分権の連邦制を求め、[[信教の自由]]を保障し、大統領は任期制の上再任不可が望ましいとしていたため、路線対立によって対立はさらに深まった。ボリバル派は「追従派」、サンタンデル派は「自由派」と呼ばれるようになり、党派対立は深まるばかりだった。[[1827年]]、大コロンビアのベネズエラとヌエバ・グラナダの間で内乱が起きると、鎮圧のためボリバルは1827年1月28日にペルー大統領を辞任し、リマを去った。ボリバルは、あくまで大コロンビア、ラテンアメリカ連合の維持を理想とした。[[1828年]]4月にはオカーニャにて大コロンビア国民会議(憲法制定会議)を招集した。この時ボリバルは自派である追従派の多数派工作を行っていたのだが、いざ会議が始まると自由派が多数を占めるようになり、ボリバルのもくろみは外れてしまった。このためボリバルは8月にサンタンデルを解任し、憲法を停止して、独裁権を手中に収める。しかし、翌月には解任されたサンタンデル派によってボリバル暗殺計画が立てられ、ボリバルは大統領宮殿から危機一髪で逃げ出すこととなった。このためボリバルはサンタンデルを国外追放処分としたが、自身の健康状態の悪化などにより事態は流動的になり始めた。
 
[[1829年]]には、ペルー大統領となったアグスティン・ガマーラが現在のエクアドルにあたる地域の領有を要求し、[[ペルー軍]]がグアヤキルに侵入した({{仮リンク|グラン・コロンビア=ペルー戦争|en|Gran Colombia–Peru War}})。これはスクレによって撃破されたが、もはやボリバルの権威の低下は誰の目にも明らかだった。さらにボリバル配下の将軍[[ホセ・マリア・コルドバ]]が反乱を起こす。これもまた鎮圧されたが、1829年の秋には、ベネズエラでホセ・アントニオ・パエスが大コロンビアから分離独立を宣言し、[[1830年]]に入るとまずベネズエラが正式に完全分離独立を宣言、続いてキトとグアヤキルがエクアドルとして独立した。
== 人物像 ==
[[ファイル:Plaza Bolívar of Ciudad Bolívar.jpg|thumb|right|250px|[[シウダ・ボリバル]]の銅像]]
踊りが上手く、非常に情熱的で、理想主義者であったといわれている。また文筆の才能にも優れていた。特に若い頃に[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]や[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の思想に触れ、ナポレオンの戴冠式に出席したことが、後年に大きな影響を与えたといわれる。生涯を[[共和主義者]]として過ごし、君主制の導入を断固として拒否したのはナポレオンに失望したからであったようである。一方で、共和主義者ではあったが大統領には強い権限を与えることが望ましいとし、大統領の任期は終身制が望ましいとした。また、政治システムとしては強力な中央集権体制を望んだ。宗教的にはカトリック教会の特権を保護し、教会と協調する道を選んだ。これらは独立戦争中に各地方の反目によって幾度も苦杯をなめさせられたことや、新国家の脆弱性を認識していたことから来るもので、実際に1828年から1830年にかけての、大コロンビア末期のボリバルの統治はまさしく独裁制であった。しかしこの政治スタイルは南アメリカの当時の現状には全く沿っておらず、各地方の分離独立や自由派の抵抗を招き、彼の建国した大コロンビアはわずか12年で崩壊することとなった
 
彼の名は、現在でも南アメリカ各地に大きな影響を与えている。すでに述べたが、ボリビアの国名の由来にもなり、ベネズエラではボリバルが革命議会を開き拠点としたアンゴストゥーラの街が、ボリバルにちなんで[[シウダ・ボリバル]]と改名された。またカラカス最寄りの[[シモン・ボリバル国際空港|マイケティア国際空港はシモン・ボリバルの名を合わせ持つ]]。多くの街角には解放者ボリバルの銅像が立ち並び、ベネズエラの地図作成の役所は「ベネズエラ地理院シモン・ボリバル」を正式名称とする。カラカスの[[ボリバル広場 (カラカス)|ボリバル広場]]と、ボゴタのボリバル広場は、それぞれベネズエラとコロンビアの首都の中心広場(プラサ・マジョール)である。「アラブの春」で象徴的な働きをしたカイロのタハリール広場の隣にも「シモン・ボリバル広場」がある。その他、各国の州・都市・街区・街路・大学など、ボリバルの名を冠するものは夥しい。ベネズエラの通貨単位はボリバルで、紙幣の肖像画も多くはボリバルのものとなっている。1999年にベネズエラの大統領に就任した[[ウーゴ・チャベス]]は、ボリバル革命を唱えて国名に「ボリバル」を挿入し、ベネズエラの正式国名は「ベネズエラ・ボリバル共和国」となった。