「ウーヴェ・ヨーンゾン」の版間の差分

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[[1952年]]、[[ロストック]]の大学で学び始め、1954年にライプツィヒ大学に編入。[[1956年]]には[[エルンスト・バルラッハ]]の『盗まれた月』を分析した論文を提出して卒業する。
しかし[[社会主義リアリズム]]を至上とする東ドイツでは[[表現主義]]の作品を扱った論文を書いたヨーンゾンを「市民的」として排斥し、卒業後も定職を得られなかった。
そのため彼は翻訳(『[[ニーベルンゲンの歌]]』、[[ハーマン・メルヴィル]]『イスラエル・ポッター』など)や編集など臨時の仕事で生計を立てている。このころ、1953年から執筆していた習作『イングリット・バーベンダーエルデ 卒業試験1953年』を出版しようと試みるも、本作の発表は死後、[[1985年]]になってからであった。
 
[[1959年]]には『ヤーコプについての推測』を[[西ドイツ]]のズーアカンプ社から発表し、[[フランクフルト書籍見本市]]で好評を博す。東独に身を置きながら書き続けることの困難から、同年西[[ベルリン]]への転居を決意し、本格的な執筆活動に入っている
同年西[[ベルリン]]に転居、本格的な執筆活動に入っている。
 
[[1960年]]、西ベルリンから[[フォンターネ]]賞を受け、翌年『[[三冊目のアヒム伝]]』を発表する。
[[1962年]]、ヴィラ=マッシモ奨学金を受け[[イタリアローマ]]に滞在。同年、エリザベート・シュミットと結婚。
[[1964年]]には『カルシュとその他の散文』を発表。
[[1965年]]、ベルリンの分断を題材とした『二つの風景』を発表する。
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1970年、『記念の日々』の第一巻が刊行される。(第二巻は1971年、第三巻は1973年、第四巻は1983年に刊行)
 
[[1974年]]、[[テムズ川|テームズ河口]]のシェピ島にある港町シェアネスに転居する。このころ妻エリザベートから結婚前の浮気を告白され、相手がチェコ人だったことから、ヨーンゾンは妻が彼に対して[[チェコスロバキア]]、あるいは東独のためにスパイ行為を働いていたという疑念を持ちはじめ、スランプに陥る。この件については、後に『付随する問題』の中でも触れられているが、当のエリザベートはスパイ行為を一切否定している。1978年に妻子と離別
 
[[1979年]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]大学で詩学を講義し翌年『付随する問題』のタイトルで講義録が出版される。
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1981年、[[マックス・フリッシュ]]の70歳の誕生日を記念した短編『遭難者のスケッチ』を発表する。
 
[[1984年]]、シェアネスの自宅で心不全のため死去。最後に目撃されたのは2月23日だが、発見が遅れたため、正確な死亡日時はわかっていない
 
== 特徴 ==