「アンリ・クリストフ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Fenrir Wolf (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
43行目:
クリストフは[[1791年]]の[[ハイチ革命]]で有名となり、[[1802年]]には将軍の階級にまで昇任した。[[1806年]]には皇帝となった[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]に対する[[クーデター]]に参加し北ハイチを支配下に置いた。主要なライバルはクーデタ首謀者の[[アレクサンドル・ペション]]だった。ペションは共和制を擁護して、国の南部を支配した。
[[1807年]]にアンリは「ハイチ国陸海軍大元帥・大統領」(''président et généralissime des forces de terre et de mer de l'État d'Haïti'' (Cheesman, p.3) <ref name="ceac">{{cite book | last =Cheesman | first =Clive | authorlink = | coauthors = | title = The Armorial of Haiti | publisher = The College of Arms | date =2007 | location =London | pages = | url =http://www.college-of-arms.gov.uk/ | doi = | id = | isbn = 9780950698021 }}</ref>となり、同時にペションは南部で「ハイチ共和国」の大統領となった。1811年アンリは北ハイチを[[ハイチ王国]]とし、自らを王と宣言した。1811年4月1日の命令が、彼の完全な称号を伝え
: アンリ、神の恩寵とハイチ王国憲法による、トルチュガ、ゴナーヴと他の隣接した諸島の主権者、暴政の破壊者、ハイチ国民の再生者かつ後援者、士気と政治と戦争機関の創造者、新世界で最初の王制君主、[[信仰の擁護者]]、聖アンリの王と軍の勲章の創設者
彼の唯一生き残った息子[[ジャック=ヴィクトル・アンリ]]はハイチ皇太子の称号とともに後継者とされた。アンリは英語が母語であったといわれ、[[フランス語]]で書かれた文書でも王の名は[[英語]]式に ''"Henry"'' と綴られた。
|