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この間、1956年には党中央委員に選出され、[[1973年]]4月には[[ソ連共産党政治局|党政治局員]]となる。元来ソ連外務省は、ほかのソ連の国家機関同様、ソ連共産党の国際部や社会主義連絡部などの指導を受けて、外交を実施する機関であったが、1970年代からソ連閣僚会議が膨大な官僚を擁して行政府として強大化していったことと軌を一にしたこと、そしてグロムイコの外務大臣の在職が長期化したことに連れて、その政治的権威も増大していった。
 
ブレジネフ政権末期からグロムイコは、古参閣僚として[[キングメーカー]]的な存在感を増すようになる。[[ユーリ・アンドロポフ]]政権の[[1983年]]からは閣僚会議第一副議長(第一副首相)を兼任した。その後アンドロポフの死去([[1984年]]、2月)、さらには[[1985年]]3月の[[コンスタンティン・チェルネンコ]]書記長の死去と短命な政権が二期続いたことを受け、後継書記長の選出に当たってはゴルバチョフを強く推した。推薦演説に当たっては、ゴルバチョフを「この人物は若いが、鉄の歯を持っている」と評した。
[[File:Gromyko statue in Gomel.JPG|thumb|200px|left|[[ホメリ]]にあるグロムイコの像]]
しかし、皮肉にもゴルバチョフの鉄の歯はグロムイコ自身にも向かった。7月に外務大臣のポストをシェワルナゼに譲り、最高会議幹部会議長に祭り上げられた。これはゴルバチョフが外交の主導権を掌握し、新思考外交を進める上で老齢のグロムイコが障害となったためである。