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'''ポメラニア公国'''([[ドイツ語]]: Herzogtum Pommern)は、[[バルト海]]南岸の[[ポメラニア]]にあった[[西スラヴ語|西スラヴ]]系の[[公国]]。
== 歴史 ==
[[1109年]]、[[ポーランド]]の大公[[ボレスワフ3世クシヴォウスティ|ボレスワフ3世曲唇公]]が「ポメラニア人」と呼ばれる[[異教]]のスラヴ系諸部族が支配していたポメラニア一帯([[リューゲン島]]の{{仮リンク|リューゲン公国|en|Principality of Rügen}}を含む)を平定。[[1121年]]ポメラニア人の{{仮リンク|グリフィン家|en|House of Griffins}}([[ドイツ語]]でグライフェン家、[[ポーランド語]]でグリフ家(グルィフ家)と呼ばれる)の[[ヴァルティスラフ1世]]を自らの臣下として封じて公国が成立。
ボレスワフ3世曲唇公はポメラニア公国全体のキリスト教化を目指し[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール3世]]に協力を依頼。[[バンベルク]]よりオットー司祭が招かれ、大公はポメラニア公国全体のキリスト教化に成功するものの、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の[[コスモポリタニズム]]の教義を忠実に守るポーランドは皇帝にポメラニア全体を献上し、ポーランドによるポメラニア支配は1138年に終了。その期間を通じてヴァルティスラフ1世は公国の政治的統一を進めた。
後には神聖ローマ帝国と[[デンマーク|デンマーク王国]]との間でポメラニアの支配権をめぐる抗争が勃発(第1次分割 1155-1264)。1219年にデンマークが公国の支配権を確立する。[[1227年]]には、旧リューゲン公国領を巡ってデンマークと[[東方植民]]以降勢力を拡大しつつあった[[ハンザ同盟]]の[[ホルシュタイン]]伯([[:de:Grafschaft Holstein]])との間で[[:en:Battle of Bornhöved (1227)]]が勃発した。
[[1295年]]に[[:en:Partitions of the Duchy of Pomerania]]で Pomerania-Demmin と Pomerania-Stettin に分割された(第2次分割 1295-1368)。第3次分割 (1368-1376)。第4次分割 (1376/1377-1478)。14世紀末にはポンメルンのエリクこと[[エーリク7世 (デンマーク王)|エーリク7世]](ポメラニア公{{仮リンク|ヴァルティスラフ7世|en|Wartislaw VII, Duke of Pomerania}}の子)が[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー]](在位1389年 - 1442年)、[[デンマーク君主一覧|デンマーク]](在位1396年 - 1439年)、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン]](在位1396年 - 1439年)の国王に選出されている([[カルマル同盟]])。[[1464年]]にPomerania-Stettin領有権を巡って Pomerania-Wolgast と Brandenburgからのクレームで[[:en:Brandenburg–Pomeranian conflict]]が起こり、[[:en:Treaty of Prenzlau]](1472、1479)で Pomerania-Wolgast に併合された。
第5次分割 (1531-1569)。第6次分割 (1569-1625)。[[三十年戦争]]([[1618年]] - [[1648年]])中の[[1637年]][[3月10日]]に最後のポメラニア公{{仮リンク|ボギスラフ14世|en|Bogislaw XIV, Duke of Pomerania}}が亡くなり、
== 消滅後の歴史 ==
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[[Category:ポメラニア公|*]]
[[Category:メクレンブルク=フォアポンメルンの歴史]]
[[Category:ブランデンブルクの歴史]]
[[Category:スウェーデンの歴史的地域]]
[[Category:デンマークの歴史的地域]]
{{History-stub}}
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