「ポメラニア公国」の版間の差分

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[[1295年]]に[[:en:Partitions of the Duchy of Pomerania]]で Pomerania-Demmin と Pomerania-Stettin に分割された(第2次分割 1295-1368)。第3次分割 (1368-1376)。第4次分割 (1376/1377-1478)。14世紀末にはポンメルンのエリクこと[[エーリク7世 (デンマーク王)|エーリク7世]](ポメラニア公{{仮リンク|ヴァルティスラフ7世|en|Wartislaw VII, Duke of Pomerania}}の子)が[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー]](在位1389年 - 1442年)、[[デンマーク君主一覧|デンマーク]](在位1396年 - 1439年)、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン]](在位1396年 - 1439年)の国王に選出されている([[カルマル同盟]])。[[1464年]]にPomerania-Stettin領有権を巡って Pomerania-Wolgast と Brandenburgからのクレームで[[:en:Brandenburg–Pomeranian conflict]]が起こり、[[:en:Treaty of Prenzlau]](1472、1479)で Pomerania-Wolgast に併合された。
 
第5次分割 (1531-1569)。第6次分割 (1569-1625)。[[三十年戦争]]([[1618年]] - [[1648年]])中の[[1637年]][[3月10日]]に最後のポメラニア公{{仮リンク|ボギスラフ14世|en|Bogislaw XIV, Duke of Pomerania}}が亡くなり、[[1653年]]の[[シュテッティン条約]]で[[ブランデンブルク=プロイセン]]領{{仮リンク|ポンメルン州 (1653年 - 1815年)|en|Province of Pomerania (1653–1815)|label=ポンメルン州}}と{{仮リンク|スウェーデン領ポメラニア|en|Swedish Pomerania}}に分割され消滅した。ポメラニア公国は三十年戦争におけるスウェーデンの拠点であった。[[1630年]]に[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]率いるスウェーデン軍は公国の沿岸から上陸し、ここで神聖ローマ帝国政府への[[宣戦布告|戦争宣告書]]が発せられた。スウェーデン軍はポメラニアに駐屯し、1653年に国境線が画定されるまではスウェーデン軍の占領状態にあった。
 
== 消滅後の歴史 ==
シュテッティン条約で公国は分割されたものの、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]の男系が断絶した時にポンメルン州の継承期待権がスウェーデン側に認められている。これは公国の最終的な継承権がスウェーデンに渡ることを意味していたが、[[選帝侯]]家である[[ホーエンツォレルン家]]は断絶せず、[[大北方戦争]]後に公国の大半を占めるに至った。スウェーデンはこの戦争による敗北によって公国領土の一部を失ったが、フォアポンメルンの北半分のみを維持し続けた。公国は長きに渡り分断された、[[1814年]]の[[キール条約]]でブランデンブルク=プロイセンから発展した[[プロイセン王国]]によって統一され{{仮リンク|ポンメルン州 (1815年 - 1945年)|en|Province of Pomerania (1815–1945)|de|Provinz Pommern|label=ポンメルン州}}となったものの、公国として復活する事はなかった。称号として[[ホーエンツォレルン家]]による[[ドイツ皇帝]]の称号の一つとなり、[[ドイツ帝国]]が消滅する[[1918年]]まで用いられた。[[1919年]][[6月28日]]に調印された[[ヴェルサイユ条約]]で[[西プロイセン]]が[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]へ割譲され、[[ポーランド回廊]]と呼ばれることとなり、[[東プロイセン]]がドイツ本国から分断された。
 
== 関連項目 ==
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[[Category:神聖ローマ帝国の領邦国家]]
[[Category:ドイツの領邦]]
[[Category:バルト帝国]]
[[Category:ポーランド王国]]
[[Category:ポメラニア]]