「高隆之」の版間の差分

編集の要約なし
同年([[天平 (東魏)|天平]]元年)、母が死去し、服喪のために任を解かれた。ほどなく并州刺史として再び起用され、入朝して尚書右僕射となった。当時の[[東魏]]では権勢家が良い農地を占めて、零細民は痩せた土地しか耕作できなかったことから、隆之が高歓に上申して、農地の交換を進め、格差の縮小につとめた。また営構大将をつとめて、鄴都の建設を取り仕切り、南城を増築した。漳水を鄴城の近くまで引き込み、長い堤防を築いて氾濫を予防させた。[[542年]]([[興和 (東魏)|興和]]4年)、[[司徒]]に進んだ。
 
[[544年]]([[武定 (東魏)|武定]]2年)10月、河北括戸大使となった。11月、[[尚書令]]に任じられた。[[547年]](武定5年)、鄴都に召還されて、領軍将軍・録尚書事に任じられた。まもなく[[侍中]]を兼ね、次いで行[[青州]]事として出向した。また召還されて、太子太師に任じられ、尚書左僕射・吏部尚書を兼ねた。この頃、隆之は賄賂を受け取っていたことから、[[高澄]]に尚書省に召し出されて厳しい叱責を受けた。高澄が死去すると、隆之は[[崔暹 (北斉)|崔暹]]と[[崔季舒]]を排除するよう[[文宣帝|高洋]]に進言した。[[550年]](武定8年)、[[太保]]に転じた。
 
[[550年]]([[天保 (北斉)|天保]]元年)、北斉が建国されると、爵位は平原王に進んだ。まもなく本官のまま[[録尚書事]]となり、大宗正卿・監国史を兼ねた。隆之は文宣帝(高洋)の即位前には見下した態度を取っており、即位後も東魏の旧皇族と交友していたため、文宣帝の怒りを買っていた。[[554年]](天保5年)、文宣帝の命により隆之は壮士に100回の殴打を受けて放逐され、路上で野垂れ死んだ。享年は61。冀定瀛滄幽五州諸軍事・[[大将軍]]・[[太尉]]・太保・[[冀州]]刺史の位を追贈され、陽夏王に追封されたが、[[諡]]は得られなかった。