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[[File:Gozen-kaigi 1 January 1945.jpg|thumb|right|250px|1945年1月の御前会議]]
'''御前会議'''(ごぜんかいぎ、[[英語]]:Imperial Conference)とは、[[大日本帝国憲法]]下の[[大日本帝国|日本]]において、[[天皇]]臨席の下で重要な[[国策]]を決めた[[会議]]である。今日においては会社、団体など組織の幹部の会議の比喩として使われることも多い
今日においては会社、団体など組織の幹部の会議の比喩として使われることも多い。
 
== 概要 ==
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[[1938年]]に復活して以降について記す。
 
{| class="wikitable"
!|||!!開催年月||!!議題||!!内閣||!!昭和天皇の発言等
|-
|4{{Center|1}}|1940|[[193811]][[11311]]||[[支那事変]]処理要綱に関する件ほか根本方針||rowspan="2"|[[第1次近衛内閣]]||
!|回||開催年月日||議題||内閣||昭和天皇の発言等
|-
|1{{Center|2}}||1938年1[[111130]]||[[那事変]]処理根本新関係調整方針||[[第1次近衛内閣]]||
|-
|2{{Center|3}}|1938|[[194011]][[93019]]||[[支新関係調整方針独伊三国同盟|日独伊三国同盟条約]]||rowspan="3"|[[12次近衛内閣]]||
|-
|{{Center|4}}||1940年[[11月13日]]||支那事変処理要綱に関する件ほか||
|3||1940年9月19日||[[日独伊三国同盟|日独伊三国同盟条約]]||[[第2次近衛内閣]]||
|-
|{{Center|5}}||[[1941年]][[7月2日]]||[[情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱]]||
|4||1940年11月13日||支那事変処理要綱に関する件ほか||第2次近衛内閣||
|-
|5{{Center|6}}||1941年7[[926]]||rowspan="2"|[[情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策遂行]]||[[23次近衛内閣]]||[[明治天皇]]の[[御製]]を詠む形で、対米開戦回避を示唆。
|-
|{{Center|7}}||1941年[[11月5日]]||rowspan="5"|[[東條内閣]]||
|6||1941年9月6日||[[帝国国策遂行要領]]||[[第3次近衛内閣]]||[[明治天皇]]の[[御製]]を詠む形で、対米開戦回避を示唆。
|-
|7{{Center|8}}||1941年11[[1251]]||帝国国策遂行要領||[[東條内閣]]対米英蘭開戦の件||
|-
|8{{Center|9}}|1941|[[1942]][[12月121]]||対米英蘭開[[大東亜争]]完遂件||東條内閣為の対支処理根本方針||
|-
|{{Center|10}}||[[1943年]][[5月31日]]||大東亜政略指導大綱||
|9||1942年12月21日||[[大東亜戦争]]完遂の為の対支処理根本方針||東條内閣||
|-
|10{{Center|11}}||1943年5[[93130]]||大東亜政略rowspan="2"|今後採るべき戦争指導大綱||東條内閣ほか||
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|12<ref>この回より、「御前に於ける[[最高戦争指導会議]]」の名称で開かれている</ref>||[[1944年]][[8月19日]]||[[小磯内閣]]||
|11||1943年9月30日||今後採るべき戦争指導の大綱ほか||東條内閣||
|-
|12<ref>第12回より、「御前に於ける{{Center|13}}||[[最高戦争指導会議1945年]]」の名称で開かれている</ref>||1944年8[[6198]]||今後採るべき戦争指導の基本大綱ほか||rowspan="3"|[[小磯鈴木貫太郎内閣|鈴木内閣]]||
|-
|{{Center|14}}||1945年[[8月10日]]<ref>通説では[[8月9日]]深夜に始まったとされていたが、『[[昭和天皇実録]]』において[[8月10日日午前]]0時3分開始と確認された[http://mainichi.jp/shimen/news/m20140909ddm010040199000c.html 昭和天皇実録:ポツダム宣言受諾、226… 26… 分刻み、克明記録  研究手がかりに] 毎日新聞 2014年9月9日)。</ref>||[[ポツダム宣言]]受諾の可否について||鈴木内閣||[[鈴木貫太郎]]から乞われる形で宣言受諾の意思表明(いわゆる[[聖断]])。
|13||1945年6月8日||今後採るべき戦争指導の基本大綱||[[鈴木貫太郎内閣|鈴木内閣]]||
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|14||1945年8月10日<ref>通説では8月9日深夜に始まったとされていたが、『[[昭和天皇実録]]』において8月10日日午前0時3分開始と確認された。[http://mainichi.jp/shimen/news/m20140909ddm010040199000c.html 昭和天皇実録:ポツダム宣言受諾、2・26… 分刻み、克明記録 研究手がかりに] 毎日新聞 2014年9月9日</ref>||[[ポツダム宣言]]受諾の可否について||鈴木内閣||[[鈴木貫太郎]]から乞われる形で宣言受諾の意思表明(いわゆる[[聖断]])。
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|15||1945年8月14日||ポツダム宣言受諾の最終決定||鈴木内閣||再度、宣言受諾の意思表明(再度の[[聖断]])。
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|{{Center|15}}||1945年[[8月14日]]||ポツダム宣言受諾の最終決定||鈴木内閣||再度、宣言受諾の意思表明(再度の[[聖断]])。
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== 場所 ==
*終戦直前の2回の御前会議は「望岳台」近くの地下壕「吹上御文庫付属室」で行われた。地下10m、部屋の広さは15坪ほど<ref>56平方メートル56m<sup>2</sup>という資料がある。</ref>であり、天皇皇后両陛下の寝室・居間のある吹上御文庫地下壕<ref>1942(昭和17)[[1942]][[12月31日]]竣工。建坪1320㎡1320m<sup>2</sup>。当初1t爆弾に耐えられるようコンクリートと砂の3重構造で作られたが、後に6t爆弾に耐えられるよう補強された『天皇裕仁と東京大空襲』 松浦総三)。</ref>からは90m離れており、地下道でつながっていた。[[1944年|1944]] -45 [[1945]]に50t爆弾に耐えられるよう陸軍工兵隊により作られ、附属室での初めて[[枢密院 (日本)|枢密院]]本会議が、1945(昭和20)1945[[6月2日]]に開催された<ref>枢密院は皇居内に現存する。長く宮内庁音楽隊の練習場所であり補修もされていなかったが、[[2010年]]頃から復旧工事計画が進んでいる。</ref>。
 
== 脚注 ==