「狩野安信」の版間の差分

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絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の[[延宝]]8年([[1680年]])に弟子の狩野昌運に筆記させた『画道要訣』である<ref>監修 [[小林忠]]・[[河野元昭]] 編集・校訂 安村敏信 『[定本] 日本絵画論大成 第4巻』所収 [[ぺりかん社]]、1997年 ISBN 4-8315-0767-9</ref>。この中で安信は、優れた絵画には、天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている。ただし、安信は質画の良さまで否定したわけではなく、さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する。
 
== 安信の作品と特色評価 ==
安信は比較的長命で狩野宗家の当主ということもあり、多くの作品が残っている。しかし、粉本をただ丸写ししたかのような、画家の[[個性]]を重んじる現代では鑑賞に耐えない作品も少なからずある。しかし、その中でも上質な作品を掬い出して見ると、粉本に依拠しつつも画面を的確に構成し、丁寧で真面目な描線で描いておりモチーフを的確に構成した「学画」という自身の言葉通りの作品を残している。筆墨による繊細な表現が重要な[[水墨画]]を苦手としていたらしく、優品と呼べる作品は少ない一方、時にその単調な筆墨が力強い表現に転化する場合もあり、明確な線質によってある種の迫力が生まれる人物画に優れた作品が多い。ただし、優品の中でも人物の衣文線がはみ出したり、一つの絵巻や屏風内でも明らかな様式の不統一があるなど、細部がいい加減な点がしばしば見られ、細かい点に拘らない安信の資質が見て取れる。
 
安信は既に江戸時代から兄達に劣るとする評価が広く見られたが、一方でそれを下手と切り捨てるのではなく、兄二人と別の方向を目指した、努力で補ったとする好意的な解釈も見られる。公家の[[近衛家熈]]は尚信を高く評価していたが、安信にもその力量を認めている。曰く、「安信は兄には及ばないことを自覚し自分の様式を貫いているが、決して兄二人に劣っていない」<ref>『槐記』享保12年閏正月二十八日条。</ref>、「安信は下手と言われるが、出来の良い作品は素晴らしい。これは安信が探幽や尚信に及ばないと考え、「己が一家一分の風を書出して」個性を出したからで、これが安信の優れた所である」<ref>『槐記』享保13年五月四日条</ref>。
 
[[蘭方医学|蘭方医]]の[[杉田玄白]]も、三兄弟を評した文章を残している。「探幽の縮図を見たことがあるが、その膨大な量、留書の筆まめさ、出来栄えなどから、探幽には才能に加えい志のある三、四百年の名人だと感じ入った。尚信・安信は共に上手だが、尚信は才能があるため絵が風流で、例えるなら紗綾縮緬、安信は才能で劣るため雅さがなく絹紬のようだという。前者は良い織物だが、染色が悪くて仕立てが悪いと人前で着れたものではない。対して後者は劣った織物だが、染めや仕立てが上手ければ人前でも着ることができる。安信は絹紬のように下地、即ち先天的な才能では劣っていたが、努力したため兄二人に並ぶ上手となった。安信の絵が雅でなくともそれは恥ではなく、学んだことが結果として表れているのが素晴らしい。今でも識者は安信を目標に絵を学ぶといい、[[医学]]を志す者もこうした安信の姿勢こそ見習うべきである」(『形影夜話』)<ref>門脇むつみ 『巨匠 狩野探幽の誕生 江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇』 朝日新聞出版〈朝日選書925〉、2014年10月、pp.93-101、230-236。</ref>。
 
== 代表作 ==
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|絵14段、詞書13段。詞書の作者・筆者は不明。松江藩[[家老]]・村松内膳直賢が建てた内善寺(現存せず)の創建を主題とする絵巻。各段の様式・図様の違いが大きい。
|-
 
|[http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/bun-c-25.html 羅生門図絵馬]
|板絵著色
|絵馬1面
|[[蒲郡市]]・大宮神社
|[[16591668年]](万治2寛文8年)
|款記「法眼永真筆」
|蒲郡市指定文化財。奉納者は[[三河吉田藩]]主・[[松平家清]]の弟・[[松平清定|清定]]の孫の松平清行。
|-
|[http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/bun-c-24.html 伯牙子期図絵馬]
|板絵著色
|絵馬1面
|蒲郡市・[[八百富神社]]
|1668年(寛文8年)
|蒲郡市指定文化財。奉納者は上記と同様に松平清行。
|-
 
 
|[[曲水の宴|蘭亭曲水]]図屏風
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|江月自賛。円相図
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|[[江雪宗立]]画像
|1幅
|龍光院
|[[1659年]](万治2年)
|
|江雪自賛
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|}
 
== 関連項目 ==
* [[英一蝶]] - 弟子。従来、安信は弟子の一蝶にあまり影響を与えなかったとされていたが、近年、安信の画帖と一蝶の絵に幾つかの共通する図様が指摘されている。
* [[狩野昌運]] - 弟子。安信亡き後の中橋狩野家を盛り立てた[[番頭]]的存在。
* [[狩野派]]
 
== 脚注 ==
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* 安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』 [[東京美術]]、2006年 ISBN 978-4-8087-0815-3
* 佐々木英理子 野田麻美企画・編集 『「探幽3兄弟─狩野探幽・尚信・安信─」展図録』 [[板橋区立美術館]]・[[群馬県立近代美術館]]ほか発行、2014年2月
 
== 関連項目 ==
* [[英一蝶]] - 弟子。従来、安信は弟子の一蝶にあまり影響を与えなかったとされていたが、近年、安信の画帖と一蝶の絵に幾つかの共通する図様が指摘されている。
* [[狩野昌運]] - 弟子。安信亡き後の中橋狩野家を盛り立てた[[番頭]]的存在。
* [[狩野派]]
 
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