「共和国宮殿」の版間の差分

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[[1960年代]]から王宮跡地のうち東半分に政府ビルの建設が計画され、ハインツ・グラフンダー({{lang|de|Heinz Graffunder}})他5名の建築家の設計により[[1973年]]から3年にわたる工事の末、[[1976年]][[4月23日]]に共和国宮殿のオープンが祝われた。東ドイツの一般的で簡素な建築様式で設計された共和国宮殿は、南北の長さ180 m、東西の幅85 m、高さ32 m で6階建ての、白い大理石にブロンズミラーガラス張りの外観であり、中は大ロビーに吊るされた1001個のランプを筆頭に白く輝く大理石の華やかな内装が行われていた。北側の小ホールは人民議会の議場として使われ、一方幅67m・高さ18mの六角形の大ホールは[[ドイツ社会主義統一党]]党大会や国家的行事のほか、劇・コンサート・テレビ番組の公開収録などに使われ、可動式の天井や壁により大人数から少人数まで多様な用途に利用できた。大ロビーなどは東ドイツの芸術家たちの作品で飾られた。
 
東ベルリン市民からは「共和国の[[バラスト]]」({{lang|de|Ballast der Republik}}、「{{lang|de|Palast der Republik}}」のもじり)、「エーリッヒのランプ店」({{lang|de|Erichs Lampenladen}}、当時の最高権力者である[[ドイツ社会主義統一党|社会主義統一党]]書記長[[エーリッヒ・ホーネッカー]]と館内に設置された大量のランプから)、「パラッツォ・プロッツォ」({{lang|it|Palazzo Prozzo}}、お威張り宮殿、「自慢」を意味するProtzをイタリア語風にしたあだ名)などと悪口を言われた<ref>http://www.goethe.de/ins/prj/life/nov/ja204346.htm 「共和国宮殿から民衆宮殿へ」, シュテファニー・ヴルスター, 2004, [[ゲーテ・インスティテュート]](日本語)</ref>が、音楽イベントの行われるホールやレストラン、バーといった部分には人が多く集まり、東ベルリン随一の人気スポットとなっていた。[[1983年]]10月には[[西ドイツ]]のロックスター・[[ウド・リンデンベルク]]が共和国宮殿でのライブ開催を許可されたが、彼は自身の有名な曲の一つでホーネッカー書記長を皮肉った「{{lang|de|Sonderzug nach Pankow}}」([[パンコウ]]行きの特別列車)([[:de:Sonderzug nach Pankow|de]])を、歌わないよう事前に申し渡されたにもかかわらず歌っている。
 
かつて共和国宮殿を舞台に行われた重要な出来事には、1976年・[[1981年]]・[[1986年]]のドイツ社会主義統一党の党大会のほか、[[東欧革命]]のさなかの[[1989年]]10月に建国40周年の前夜を祝い[[ソビエト連邦]]の[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[ソビエト連邦共産党書記長|共産党書記長]]を招いて行われた祝典などがある。この式典では、東ドイツの体制死守を主張するホーネッカーにゴルバチョフは冷淡な態度を見せ、これが同月中のホーネッカー失脚に結び付いた。[[ベルリンの壁崩壊]]後の[[1990年]]には東ドイツで最初で最後の民主的に選出された人民議会が開催され、東西ドイツ統合の方向が決められた。