「上杉憲盛」の版間の差分

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== 概要 ==
通称は三郎。のちに静徹と号する。父・憲賢が[[成田長泰]]と結んだ際に姪とされる[[太田資顕|太田資時]]の娘(資時の早世後、その弟[[太田資正|資正]]が[[太田氏]]を継いだために母とともに実家に戻っていた)を正室に迎えた。当時の武蔵国は、[[川越夜戦]]で[[扇谷上杉家]]を破った[[後北条氏]]が勢力を拡大しており、憲盛は苦境に立たされていた。
 
== 由良家との抗争 ==
[[山内上杉家]]の[[上杉憲政]]が[[上野国]]を追われると、[[関東管領]]としての[[上杉氏]]の権威も衰退した。周囲が北条氏に下る中、[[岡谷清英]]や[[秋元景朝]]ら重臣の活躍によって[[深谷城]]を守り続けるが、やがて憲賢父子も苦渋の決断により北条氏に降伏した。[[永禄]]3年([[1560年]])、父の死とともに憲盛が[[家督]]を継いだ。
 
父臨終の間際、憲賢危篤の報を手に入れた[[由良成繁]]は、およそ300騎を率いて深谷家の領内に侵入した。憲盛の軍は急な事だったので120騎しか集められず敗退、家督相続間際に北部の領土を一部失った。