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[[File:Harukichi Shimoi.jpg|thumb|250px|right|1919年、自著『イタリア人の戦い』に掲載された肖像写真]]
'''下位 春吉'''(しもい はるきち、[[1883年]][[10月20日]] - [[1954年]][[12月1日]])は、教育者、詩人、[[童話]]口演家。詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や[[ベニート・ムッソリーニ]]と親交があり、イタリアの[[ファシズム]]運動を[[日本]]に紹介した。
 
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== ダンヌンツィオとの関係 ==
下位が詩人ダンヌンツィオと知り合ったのは1918年の夏ごろであった。1919年1月にはダンヌンツィオが日本まで飛行する計画を建て、下位の同行を求めた。この計画は結果的にフィウーメ(現[[リエカ]])問題や政治状況に怒ったダンヌンツィオによって取りやめとなった{{sfn|藤岡寛己|2011|pp=56}}、[[アルトゥーロ・フェラーリン]]によって実現している({{仮リンク|アルトゥーロ・フェラーリンによるローマ=東京飛行|it|Raid Roma-Tokyo}})
 
ダンヌンツィオによるフィウーメ占領後の1920年2月1日、下位はフィウーメ入りした。翌日には盛大な歓迎会が開かれるなど破格の対応を受けた。ダンヌンツィオは下位を「名誉伍長」に任命し、外部との連絡役に当たらせた。フィウーメを包囲していたイタリア軍にたびたび逮捕されたが、そのつどカヴィグリア将軍によって釈放が命じられたという。またこの時にムッソリーニとの連絡もおこなっている{{sfn|藤岡寛己|2011|pp=58}}。その後6月にはナポリで日本文学紹介雑誌「サクラ」を創刊し、1921年までに5冊を刊行した。