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[[慶応]]4年([[1868年]])1月17日、[[徳川慶喜]]から碓氷関の守備を命じられる。同年2月、藩論を勤皇にまとめ、官軍の松本到着直前に恭順した。同年8月9日、上洛し、20日、[[明治天皇]]に拝謁する。その後、[[北越戦争]]や[[会津戦争]]に参戦。戦功により翌年に[[賞典禄]]3000石を下賜された。
 
明治2年(1869年)6月19日、[[版籍奉還]]を許可され[[知藩事]]となる。明治4年([[1871年]])7月、[[廃藩置県]]で免官。[[太政官布告]]により、初代[[松平康長|康長]]以来下賜されてきた源姓[[松平氏]]・[[三つ葉葵]]紋を返上し、藤原姓戸田氏に復した。明治14年([[1881年]])に家督を相続した長男[[戸田康泰|康泰]]が、明治17年([[1884年]])[[華族令]]により[[子爵]]に叙任された。明治25年(1892年)没した。
 
{{松本藩主|戸田松平氏|9代|1845年 - 1871年}}