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{{市川團十郎}}
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昭和初期に[[山梨県]][[笛吹市]][[一宮町 (山梨県)|一宮町]]の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が[[市川三郷町]](旧[[三珠町]]上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし[[市川宗家]]は、初代團十郎は[[成田山新勝寺]]にほど近い[[幡谷]]の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「[[成田屋]]」という市川宗家の[[屋号]]の由来である。-->
<!--以下はむしろ「[[歌舞伎]]」の項にふさわしい内容の記述ですので、そちらの方へお願いいたします。--><!--
[[近世]]初期には[[長吏]]頭・[[弾左衛門]]の支配下にあった。しかし歌舞伎関係者は自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざした。[[宝永]]5年(1708年)に弾左衛門との間で争われた[[訴訟]]をきっかけに、ついに「独立」をはたす。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していた。またこの訴訟は、歌舞伎十八番の一つ『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』成立の契機となったという有力な説もある。しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われた。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局[[明治維新]]後のことだった<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/danzaemon03.html 弾左衛門は歌舞伎を江戸中期まで支配した(東京の被差別部落)]</ref>
[http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/danzaemon03.html 弾左衛門は歌舞伎を江戸中期まで支配した(東京の被差別部落)]</ref>
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== 解説 ==
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== 関連項目 ==
* [[柿色|團十郎茶]] <!--
* [[成田山新勝寺]]
 
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<references/>
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== 外部リンク ==
* [http://www.naritaya.jp/ 成田屋 市川團十郎・海老蔵公式サイト]
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{{市川團十郎}}
{{人名の曖昧さ回避}}
{{DEFAULTSORT:いちかわ たんしゆうろう}}