「水原秋桜子」の版間の差分

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[[1918年]]、[[高浜虚子]]の『進むべき俳句の道』を読んで俳句に興味を持ち、「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」を購読。[[1919年]]、血清化学教室の先輩に誘われ、医学部出身者からなる「木の芽会」参加、静華の号で俳句を作る。同会に「[[渋柿]]」の関係者が多かったことから、「[[渋柿]]」に投句し[[松根東洋城]]に師事。ついで[[高浜虚子]]の「ホトトギス」にも投句をはじめる<ref>『水原秋櫻子集』 三橋敏雄解説、354頁。</ref>。[[1920年]]、短歌を[[窪田空穂]]に師事、「朝の光」に短歌を投稿する。[[1921年]]より「ホトトギス」の例会に出席し、虚子から直接の指導を受ける。[[1922年]]、[[富安風生]]、[[山口誓子]]、[[山口青邨]]らと[[東大俳句会]]を再興。佐々木綾華主宰の「破魔弓」同人。[[1924年]]、「ホトトギス」課題選者に就任。1928年、自身の提案で「破魔弓」を「[[馬酔木 (雑誌)|馬酔木]]」に改題、のちに主宰となる。[[1929年]]、「ホトトギス」同人。この年、山口青邨の講演で触れられたことにより、山口誓子、[[阿波野青畝]]、[[高野素十]]の4人とともに「ホトトギス」の「四S」(しエス)として知られるようになる。
 
しかしこの頃、虚子は「秋桜子と素十」(『ホトトギス』1928年11月)において、叙情的な調べによって理想美を追求する秋桜子の主観写生と、高野素十の純客観写生の表現とを並べ後者をより高く評価すると宣言していた。さらに1931年、この論を補強する[[中田みづほ]]と浜口今夜との「まはぎ」での対談記事が「ホトトギス」3月号に転載されたことで秋桜子は態度を硬化させ、「馬酔木」にその反論として「『自然の真』と『文芸上の真』」を掲載。素十の句、ひいては虚子の客観写生論を自然模倣主義として批判しつつ主観性を称揚し、論文発表と同時に「ホトトギス」を離脱した。「ホトトギス」がほぼそのまま俳壇を意味した当時の俳句界の中、秋桜子の主張は「客観写生」に飽き足らない後進の俳人たちの共感を呼んだ。[[1935年]]には「4S四S」の山口誓子や[[橋本多佳子]]が「ホトトギス」を離れて「馬酔木」に加わり、やがて「馬酔木」内外で反虚子、反ホトトギスを旗印とした[[新興俳句運動]]の流れが起こった<ref>『水原秋櫻子集』 三橋敏雄解説、357-358頁。</ref>。
 
[[1955年]]、医業を退き俳句に専念。[[1962年]]、[[俳人協会]]会長に就任。[[1964年]]、[[日本芸術院賞]]受賞<ref>『朝日新聞』1964年4月11日([[朝日新聞東京本社|東京本社]]発行)朝刊、1頁。</ref>。[[1966年]]、[[日本芸術院]]会員。[[1967年]]、[[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]を受賞。[[1978年]][[11月18日]]には、昭和大学創立五十年記念式典で特別功労者として表彰され、式典の記念品のひとつに昭和大学五十年を詠んだ秋桜子の句「すすき野に大学舎成りぬああ五十年」の色紙が配られた。この句の句碑は大学キャンパスの中庭に建てられている<ref>前掲『昭和大学五十年史』</ref>。[[1981年]][[7月17日]]、[[心不全|急性心不全]]のため88歳で死去。墓は[[東京都]][[豊島区]]の都営[[染井霊園]]にある。