「永野修身」の版間の差分

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藤電 (会話 | 投稿記録)
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永野も[[山梨勝之進]](海兵25期)や野村吉三郎(海兵26期)と同様、[[小原國芳]]の良き理解者であり、支援者だった。
 
永野は公大な人物と知られ、公私をし­っかりと区別する人物だったという。[[太平洋戦争]]がはじまるとそれまで永野家内で使われていたパパ、ママなどの英語類を一切使うのを禁じたと永野の息女が証言している。また、永野は親類でも特別扱いは­せず、親族は一般の兵士と同様、特攻隊([[回天]]部隊)などに配属された。
 
私生活は家庭に恵まれず、次々と妻、子息を病気・空襲([[仙台空襲]])で亡くした。結婚は4回、戦後まで生存した子どもは5名である。4回目に結婚した京子夫人は永野の獄死直後に、[[脳出血]]により病没している。墓は東京都世田谷区九品仏と高知県高知市筆山(分骨)にある。九品仏浄真寺は浄土宗の寺であるが永野本人は神道信者として埋葬されている。