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[[File:The Commando Memorial by night.jpg|thumb|The Commando Memorial by night|[[1952年]]に[[スコットランド]]に建造された記念碑。[[第二次世界大戦]]中に活動した[[ブリティッシュ・コマンドス]]に捧げられた]]
'''コマンド部隊'''(コマンドぶたい)、'''コマンド'''、あるいは'''コマンドー'''、または'''コマンドウ'''<ref>高井三郎「現代軍事用語集 解説と使い方」。眞邉正行「防衛用語辞典」。金森國臣「英和/和英対訳 最新軍事用語集」</ref>([[英語]]および[[フランス語]]:Commando、[[ドイツ語]]:Kommando)は、[[軍隊]]における[[特殊部隊]]・精鋭[[部隊]]の名称としてしばしば使われる用語である。
 
== 概要 ==
「コマンド部隊」という言葉に明確な定義はない{{#tag:ref|例えば日本政府では「コマンドー」という用語に確立した定義は無いとして、「ゲリラ・コマンドウ攻撃」については「ゲリラや特殊部隊による攻撃ともいう」と注記しているという<ref name="toben50">{{Cite web |date=2010-10-29 |url= http://www.mod.go.jp/j/presiding/touben/176kai/san/tou50.html |title= ゲリラや特殊部隊による攻撃などへの対応に関する質問に対する答弁書 |publisher= |accessdate=2015-03-09}}</ref>。|group=nb}}が、その名称の起源となった[[ブリティッシュ・コマンドス]]に倣い、[[奇襲]]や後方撹乱、[[偵察]]などを目的に比較的小規模な戦力を運用する[[特殊部隊]]を指すことが多い。
 
[[アメリカ合衆国旧陸軍省]]が[[1942年]]に作成したブリティッシュ・コマンドスに関する資料では、その一次的任務について「襲撃(raids)を実施することであり、またその為に厳しい特別の訓練を受けること」として、襲撃のためには小規模な偵察隊からより多人数の[[部隊]]まで、様々な規模の編成が行われるとしている。また、ここで言う「襲撃」は敵施設の[[破壊]]や情報の確保を目的とする行動である。二次的任務については「1.上陸部隊を援護する為、精鋭部隊または[[突撃歩兵]]として[[橋頭堡]]を確保・維持すること、2.各種作戦の為に特別訓練された能力を発揮すること」としている<ref name="Commandos1942">{{Cite web |date=1942-8-9 |url= https://archive.org/details/BritishCommandos |title= British Commandos (August 9, 1942) |publisher= |accessdate=2015-03-09}}</ref>。
 
=== 語源 ===
「コマンド」という言葉が[[特殊部隊]]という意味合いで使われたのは、[[第二次世界大戦]]中に[[イギリス]]の[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|首相]]が新設の[[特殊部隊]]をコマンドと命名した事が始まりである([[ブリティッシュ・コマンドス]])。
 
かつて、[[従軍記者]]として[[ボーア戦争]]に参加したチャーチルはボーア軍の[[捕虜]]となったが、その際にコマンド(Commando)と呼ばれるボーア軍の小規模な義勇騎兵部隊の活動を目の当たりにした。この[[部隊]]は土地勘を活かし、[[イギリス軍]]に対して[[一撃離脱戦法|ヒット・エンド・ラン戦法]][[奇襲]]攻撃を行っていた。やがてチャーチルはこうした特殊部隊および[[特殊作戦]]に強い関心を抱くようになり、自らが創設に携わった新たな特殊部隊に「コマンド」の名前を用いたのである。また、特殊部隊の発案者である{{仮リンク|ダドリー・クラーク|en|Dudley Clarke}}[[イギリス陸軍|陸軍]][[中佐]]が[[トランスヴァール共和国|南アフリカ]]出身であったことも一因である<ref name="白石光p8">{{Harvnb|白石|2008|p=8}}</ref>。
 
ボーア軍コマンドの語源を辿れば、[[オランダ]][[植民地]]支配下の南部アフリカ語([[アフリカーンス語]])で、[[部族]]対立の際に部族の中でコマンド・[[指揮 (軍事)|指揮]]つまり、指揮系統における一部隊を結成したことに由来する。欧米語において、コマンドとは一部隊の名称でもある。[[ボーア戦争#第二次ボーア戦争|第二次ボーア戦争]]当時の[[1900年]]において、ボーア軍が動員した75,000人のオランダ系[[白人]]コマンドが[[ゲリラ]]戦により、[[イギリス軍]]450,000人を効果的に引き付けたとされている。
 
コマンドの派生語として、[[ズボン]]の下に何もはいていない状態([[ノーパン]])を指す[[スラング]]として"[[:en:Going commando|Going commando]]"または単に"commando"が使われることがある(主として米英加)。語源には諸説あるが、一説として[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のコマンド部隊で[[洗濯]]の手間を省くため[[パンツ]]をはかない習慣が広まったことから言われるようになったとされる。
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=== イギリス ===
{{seealso|ブリティッシュ・コマンドス}}
コマンドの名を冠された[[特殊部隊]]が初めて創設されたのは、[[1940年]]の[[イギリス]]だった。当時のイギリスは、[[フランス]]に侵攻した[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]と対決すべく[[ヨーロッパ|欧州]]大陸に派兵をしていたのだが、[[電撃戦]]によって大敗北を喫し、[[ダンケルクの戦い]]によってかろうじて[[兵士|兵員]]をイギリス本土に撤収させるのが精一杯という有様だった。
 
このような記録的敗北は受け入れがたいもので、[[イギリス陸軍]]は一時的に茫然自失の状態となった。そこで、当時イギリス陸軍[[参謀]]総長、{{仮リンク|ジョン・ディル|en|John Dill}}[[大将]]の副官だったダドリー・クラーク[[中佐]]は、ドイツ軍に対抗すべく[[ゲリラ]]戦を展開する[[部隊]]を構想した。
 
クラーク中佐がこのタイプの部隊創設を思いついたのは、ダンケルクの撤退によって多くの[[兵器]]類を大陸に破棄せざるを得なかったからである。つまり、[[武器]]がない状態では圧倒的優位を誇るドイツ軍を正面から[[撃破]]することは不可能で、代役として携帯[[火器]]のみを装備したゲリラ部隊による[[奇襲]]戦以外の選択肢がなかったのだ。
 
クラークがこのアイデアを思いついたのは、ダンケルク撤退戦の最終日に当たる1940年[[6月4日]]で、上司のディル大将には翌日の[[6月5日]]に計画案を提出した。ディル大将は更に翌日の[[6月6日]]に、当時[[イギリス首相]]だった[[ウィンストン・チャーチル]]に計画案を提出し、[[6月8日]]にはクラーク中佐に計画案の承認が伝えられた。驚くべきことに、コマンド部隊の創設はたったの4日間で決定されたことになる。
 
チャーチルからの条件は、イギリス本土をドイツ軍から防衛する部隊は使用できないことと、同様の理由から火器類の装備は最低限で済ませることの2点のみだったと言われている。チャーチル自身が書き残したメモによると、この部隊の兵員は[[志願兵]]を選抜して編成され、[[トンプソン・サブマシンガン]]や[[手榴弾]]で[[武装]]され、[[オートバイ]]や[[装甲車]]で移動するとされている。
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この新しい部隊には、[[ボーア戦争]]時代に活躍したボーア軍の呼称だったコマンドが冠されることになったが、実際の部隊編成は[[18世紀]]に活躍した[[レンジャー]]を手本にしたとされる。このため、コマンドは志願兵選抜制で、3人の[[将校]]に47人の[[下士官]]と兵士で1個部隊が編成されるという、当時の[[イギリス軍]]としては極めて異質なものとなった。
 
こうして、速成で編成されたコマンド部隊は、1940年の[[6月23日]]から翌日にかけて、初めての[[作戦]]を実施した。フランス北部の[[ブローニュ]]地区に奇襲上陸作戦を行ったのである。しかし、死傷者こそいなかったものの、その成果は見るべきものが無く、チャーチルからの不興を買った。
 
最初の作戦が不首尾に終わった後、コマンド部隊は長期間かけて再編成されることになった。2回目の作戦が実施されたのは[[1941年]][[2月21日]]で、目標は[[ノルウェー]]の[[ロフォーテン諸島]]だった。奇襲は成功し、作戦を撮影した映像がイギリスで公開され、大きな宣伝効果を生んだ。当時のイギリス軍はドイツ軍に対して全く良いところがなかったので、このような小規模部隊による奇襲攻撃の成功が戦意高揚に利用されたのである。
 
=== アメリカ ===
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は、[[イギリス]]に触発され{{仮リンク|アメリカ陸軍レンジャー|label=陸軍レンジャー|en|United States Army Rangers}}や「{{仮リンク|悪魔の旅団|en|Devil's Brigade}}」(Devil's Brigade)の異名で知られる第1特殊任務部隊を創設する。陸軍レンジャーは[[イギリス軍]]のコマンド特殊訓練施設で訓練を受け、初陣もイギリス軍コマンドの[[指揮 (軍事)|指揮]]下で活動した。第1特殊任務部隊も半数はイギリス軍式訓練を受けたイギリス連邦自治領[[カナダ軍]]将兵で構成された<ref>{{Harvnb|白石|2008|pp=11-12}}</ref>。
 
一方、[[ナチス・ドイツ]]ではコマンドに苦しみ、[[アドルフ・ヒトラー]]がコマンドを[[軍人]]ではなく[[テロリズム|テロリスト]]として即処刑する{{仮リンク|コマンド指令|en|Commando Order}}を発令する。一方で、[[アプヴェーア|国防軍情報部]]直属の[[ブランデンブルク (特殊部隊)|ブランデンブルク部隊]]や[[オットー・スコルツェニー]]指揮下の[[第502SS猟兵大隊]]を創設するなど[[特殊部隊]]にも力を入れた<ref>{{Harvnb|白石|2008|pp=9-10}}</ref>。
 
しかし、現地[[指揮官]]に事実上作戦の全権をゆだね、きわめて大きな自由裁量権を与えるコマンド部隊は、将兵に、というより国民すべてに絶対的な[[統制]]を敷き絶対的な服従を要求していた、そして、戦局の悪化と共にその傾向をさらに強めていたナチス・ドイツの国是そのものに反する存在であり、米英軍コマンド部隊ほどの独自の活躍は見られなかった。ブランデンブルク部隊は、戦局の悪化と共に[[ドイツ国防軍|正規軍]]に編入されて消耗し、第502SS猟兵大隊も、総統の側近スコルツェニーの私兵程度の存在で終わった。
 
=== その他の国 ===
また、[[大日本帝国]]や[[ソビエト連邦|ソ連]]といった他の全体主義国家においてもコマンド部隊の必要性は認識されていたが、やはりその規模や活動は主に[[指揮 (軍事)|指揮]]統率面で制限され、有効な運用をされていない。
 
[[第二次世界大戦]]後、特に[[ベトナム戦争]]以後は、少数の将兵からなる小さな[[戦闘]]単位の現地[[指揮官]]に大幅な自由裁量権を与える運用が一般化し、いわば「軍全体のコマンド部隊化」が進んでいる。また、各国でさらなる少数精鋭として[[特殊部隊]]や緊急展開部隊が編成されている。
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[[File:Vandalism Inside.jpg|thumb|[[海軍]]コマンド部隊の[[艦隊]]訓練の様子]]
*[[イギリス軍]]に支援されたコマンド部隊による[[ノルウェー]]における[[ドイツ]]の[[重水]]製造施設の[[破壊活動|破壊工作]]。
*[[イギリス連邦]]の[[オーストラリア国防軍|オーストラリア軍]]・[[ニュージーランド軍]]・在豪イギリス軍が参加した「{{仮リンク|Z特殊部隊|label=Zフォース|en|Z Special Unit}}」は、主に[[シンガポール]]停泊中の[[日本]][[船]]を少人数で襲撃して戦果を挙げ、[[1943年]][[9月26日]]の[[ジェイウィック作戦]]では7隻の日本船を沈めることに成功し、全員が無事帰還を果たしている。しかし、[[1944年]][[10月10日]]に実施されたリマウ作戦では、停泊中の日本船3隻を沈めたところで参加したZフォースのメンバー23人中13人が射殺され、残る10名も翌年5月までに全員が[[逮捕]]されている。
 
=== アメリカ(コマンド作戦) ===
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{{main|義号作戦}}
 
== 脚注 ==
=== 補足 ===
{{reflist|group=nb}}
84行目:
|publisher = イカロス出版
|isbn = 4863201389
|ref={{SfnRef|白石|2008}}
}}