「1780年のグレートハリケーン」の版間の差分

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== 被害 ==
[[Image:LocationBarbados.png|right|thumb|バルバドス島の位置]]
グレート・ハリケーンが発生したのは[[アメリカ独立戦争]]のさなかであった。当時、[[イギリス]]は対アメリカ海上封鎖を行い、[[西インド諸島]]ではイギリス艦隊とアメリカ側についた国々の艦隊が、島々の支配権や制海権を巡って戦っていた。ハリケーンはちょうど小アンティル諸島周辺を巡り争っていたイギリス艦隊と[[フランス]]艦隊を直撃し、双方に大損害を与えた。ジョージ・ロドニー提督に率いられたイギリス艦隊は[[ニューヨーク市]]から西インド諸島に向かっていたが、大嵐に襲われて艦隊は大きな損傷をこうむり散り散りになった。小アンティバドスに諸島で荒れ狂っどり着いたロドニハリケ提督被害を調べ12隻[[スペイン]]、[[オランダ]]、イギリス、フランス各国うち8隻が沈没し、そ水兵数千人乗員のほとんどが遭難したことった。
 
イギリス艦隊の司令官だったジョージ・ロドニー提督は、ハリケーンの後[[ニューヨーク市]]から西インド諸島に戻ったが、バルバドスに残した12隻の戦艦のうち8隻が沈没し、その乗員のほとんどが遭難したことを知った。また、彼の指揮下にあった艦船もほとんどが損傷したことが分かった。
ハリケーン被害を調査するため送られたイギリス軍の偵察隊が報告したところによれば、大嵐は2日間もバルバドス周辺海域にとどまり続けたという。バルバドス島にあった建物は、ほぼすべて地上になぎ倒されていた。漁船数十隻も漁に出たまま戻らなかった。島に住むほぼすべての家族はハリケーンで身内を失った。破壊の具合があまりにすさまじかったため、偵察隊は嵐と[[地震]]が同時に襲ったと誤った結論を出したほどだった。
 
ハリケーン被害を調査するため送られたイギリス軍の偵察隊が報告したところによれば、大嵐は10月10日から12日にかけて、2日以上のバルバドス周辺海域にとどまり続けたという。バルバドス島にあった木々や建物は、ほぼすべて地上になぎ倒されていた。漁船数十隻も漁に出たまま戻らなかった。死者は4,326人にのぼり、島に住むほぼすべての家族はハリケーンで身内を失った。破壊の具合があまりにすさまじかったため、偵察隊は嵐と[[地震]]が同時に襲ったと誤った結論を出したほどだった。
 
ハリケーンはマルティニーク島で9,000人の死者を出した。また[[セントルシア]]島をはじめ、小アンティル諸島の他の島でも多数の犠牲者を出した。
 
シント・ユースタティウス島では4,000人から5,000人が犠牲になった。ハリケーンはこの後、[[プエルトリコ]]島の南西隅をかすめ、北西方向へ移動していった。
 
ハリケーンは10月16日ごろ、[[イスパニョーラ島]]の東部から北部を通過し、10月17日ごろ[[フロリダ半島]]に接近した。ハリケーンは北米大陸の東沖を進み、[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]の沖合いでも強い疾風が起こっていた。いくつかの情報源は、ハリケーンの中心は10月16日から18日にかけて、[[ハイチ]]北方の[[北回帰線]]で急旋回し、西方へ進むのをやめ北東へ向かったという。他の情報源ではハリケーンは定説以上にフロリダに接近したという。
 
[[ロンドン]]で発行されている船舶と保険の雑誌ロイズ・リストは、12月19日号でこのハリケーンの情報を始めて取り上げ、1781年4月まで追加情報を出し続けたという。
 
== 気象 ==