「バルト帝国」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Hellsehen (会話 | 投稿記録)
Hellsehen (会話 | 投稿記録)
126行目:
プロイセン及びブランデンブルクは、一時期スウェーデンの宗主下におかれていたが、北方戦争の後、事実上自立を果たす事となった。この大選帝侯によって、スウェーデンは[[三十年戦争]]以来のドイツの領土を失ったのである。唯一残された[[ポメラニア|ポンメルン]](現在は[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]に属する)も[[19世紀]]に[[プロイセン王国]]に引き渡される事になる。
 
さらに、[[スウェーデン海軍]]は[[プファルツ王朝|プファルツ朝]]の下では更新は遅きに失し、これもバルト帝国の致命的な弱点となった(このため[[新大陸]]の[[植民地]]を失った他、バルト海の制海権を失う事になる。スウェーデンは当時の列強国の中で唯一、植民地化の形成に失敗した国家であった。海軍の弱体化は、結果としてヴァーサ朝の元で獲得した新大陸及び[[アフリカ]]の植民地を、北方戦争の前後に敵対国の侵攻によって喪失させられる事となり、植民地帝国や海上帝国を形成する事は出来なかった)<ref>武田 スウェーデン史、P53。</ref>。その上、[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]では[[ピョートル1世]]による近代化政策が着々と進んでいたのである。
 
とは言え、17世紀後半も様々な問題を抱えながらも帝国は維持される事となった。戦争に明け暮れた前王と異なり、カール11世の治世は平和な時代で安定期であったと評される。しかし単なる停滞期に留まらず、この時代の平和のおかげで次代の[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]の時代に本格的な軍事行動を起こせたという評価もある。実際にカール11世の軍事改革や諸改革によって帝国は持ち直したと言える。さらにドイツにおいて失われた影響力を、[[レーエン]]関係の修復や[[大同盟戦争|プファルツ継承戦争]]で[[アウクスブルク同盟]]を支援するなどして、[[フランス王国|フランス]]の拡大を抑止し[[プファルツ=ツヴァイブリュッケン]]を獲得するなど、ある程度は持ち直したと言える。カール11世の晩年のスウェーデンは、なおヨーロッパの列強としての地位を保持していたし、バルト海の覇権も維持していた。しかしそれは周辺国の犠牲の下に成り立っていた。特にデンマークに対する[[内政干渉]]とも取れる[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国]]問題への介入や、ヨーロッパへの海の出口を奪われたロシアにとってそれは深刻であった。カール11世は、ヨーロッパで起きる戦争には中立であろうとしたが、自身の死と周辺国の憤慨と野心のために果たせなかった。
 
カール11世の治世下において[[絶対君主制]]は確立された<ref>入江、P136 - P139。</ref>。幾らかはこれによって、スウェーデン支配地域における安定した国家体制が築かれた。特に[[バルト海|バルト]]地方のスウェーデン支配地域では、[[バルト・ドイツ人]]の登用などにより、バルト海及びバルト地方の繁栄時代を築いたのである。[[農奴解放]]解放や[[教育]]の推進、商業圏の拡大などである。バルト地方においては「幸福なスウェーデン時代」と呼称された繁栄の時代であったが、一方で[[フィンランド]]ではその様な恩恵は享受出来ず、[[飢饉]]や圧政などで[[フィン人]]の忿恚が高まり、その支配に軋みが生じて行くのである(当時のフィンランドは、スウェーデンと一体化した[[スウェーデン=フィンランド]]を形成していた)<ref>百瀬、P152。</ref>
 
== バルト帝国の瓦解 ==