「バルト帝国」の版間の差分

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Hellsehen (会話 | 投稿記録)
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[[Image:map_swedish_lands.png|frame|right|[[18世紀]]においても[[フィンランド]]との連合、「[[スウェーデン=フィンランド]]」は生き続けた。ただしこの時代、すでに東部カレリア、南部カレリアは喪失していた。]]
 
その後のスウェーデンは国王ではなく、[[貴族]]、[[宰相]]によって国政を牛耳られ、ヨーロッパの中の[[小国]]へと転落した([[自由の時代]])<ref>武田,物語スウェーデン史、P94 - P105。百瀬、P147。</ref>
 
しかし北方の強国はこのまま黙って没落を受け入れていた訳ではなかった。[[18世紀]]後半に[[ホルシュタイン=ゴットルプ王朝]]第2代の[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]はスウェーデンを復興させ、過去のバルト帝国の再興を目指した<ref>武田,物語 スウェーデン史、P109 - P110。百瀬、P167 - P169。</ref>
 
しかし既に[[ロシア帝国]]がバルト海の覇者であり、この[[超大国]]と一戦を交える事は国家の命運を賭す大博打であったため、スウェーデンの貴族は戦争に反対した。しかしいざ開戦してみると、スウェーデン軍は完全な勝利こそ得られなかったが、[[スヴェンスクスンドの海戦]]においてロシア海軍に完勝するなど、超大国ロシアの鼻を明かすことに成功した([[第一次ロシア・スウェーデン戦争]])<ref>武田,物語 スウェーデン史、P120 - P124。</ref>。その後のスウェーデンは[[対仏大同盟フランス革命]]に参加関与し、[[反革命十字軍]]を提唱するなど<ref>武田,北欧悲史、P174 - P176。</ref>、再び北ヨーロッパの大国としての地位を取り戻したかに見えた<ref>武田,物語 北欧の歴史、P82 - P83。</ref>
 
だが突然のグスタフ3世の[[暗殺]]([[1792年]])により、大国再興への道は頓挫する。さらに[[1805年]]には[[第四次対仏大同盟]]が崩壊し、また[[1808年]][[第二次ロシア・スウェーデン戦争]]が勃発。そして[[1809年]]には、最後に残ったフィンランドもロシアに奪われ、バルト帝国再興の夢は完全に潰え去った。その後[[ナポレオン戦争]]末期において、[[ベルナドッテ王朝|ベルナドッテ家]]の[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール・ヨハン]]がスウェーデン王位継承者に迎え入れられ、その上でフィンランド奪回を目指す動きもあったものの、ロシアとの再同盟の結果、その目的が[[ノルウェー]]獲得に取って代わられることとなった([[1814年]]の[[キール条約]]及び[[ウィーン会議]]でノルウェーを取得したものの、ほぼ対等の[[同君連合|人的同君連合]]であり、[[1905年]]まで続く[[スウェーデン=ノルウェー]][[連合王国]]を形成した)<ref>武田,物語 スウェーデン史、P157 - P158。百瀬、P194 - P197。</ref>
 
その後スウェーデンは保守化し、[[スカンディナヴィア]]の一体化を目指す様になる([[汎スカンディナヴィア主義]])。しかしこの汎スカンディナヴィア主義は、スウェーデン王[[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル1世]]によって大国主義の残滓として引き継がれた。[[19世紀]]半ばの[[クリミア戦争]]におけるフィンランド奪回の試みや、その後のデンマークを加えた[[カルマル同盟]]再興の目論見は、スウェーデンの汎スカンディナヴィア主義の昇華によるものであり、バルト海のみならず北ヨーロッパの覇権奪回を目指す最後の試みであった。最終的にこの主義と野心がスウェーデンの[[民主主義]]化とヨーロッパ[[列強]]の圧力の前に破綻したことによって、完全に終止符を打つこととなった<ref>武田,物語 スウェーデン史、P168 - P179。百瀬、P232 -P244。</ref>
 
なお、[[スウェーデン東インド会社|東インド会社]]、[[西インド会社]]が存在し(共に19世紀初頭に閉鎖)、またグスタフ3世の時代に僅かながら[[植民地]]を獲得するなど、[[北ヨーロッパ|北方]]においてはスウェーデンの国力はある程度は維持し続けていた。そして「自由の時代」に続く「[[ロココ]]の時代」(グスタフ朝時代)は、それと重なる[[啓蒙時代]]としてスウェーデン[[文化]]の興隆の時代でもあった<ref>武田,北欧悲史、P123 - P190。</ref>
 
== 出典 ==