「市川團十郎 (5代目)」の版間の差分

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文化3年、66歳で死去。[[辞世の句]]は「木枯らしに 雨もつ雪の 行衛かな」。また孫でこの年15歳になったばかりの七代目團十郎の将来を祝福して、「顔見世や 三升樽の 江戸のつや」と詠んだ。墓所は[[青山墓地]]。
 
== 人物・芸風 ==
細工をしないおおらかな芸風で、荒事の他、実悪、[[女形]]など様々な役柄をつとめ分け「東夷南蛮・北狗西戎・四夷八荒・天地乾坤」の間にある名人と評された。どんな役でもくさらずに懸命につとめ、生活面も真面目で、多くの人たちから尊敬され「戯場の君子」とまで呼ばれた。文才もあり[[松尾芭蕉]]の作風を慕って[[俳諧]]をよくし、また'''花道のつらね'''の名で[[狂歌]]を詠み、[[立川焉馬]]、[[大田南畝|大田蜀山人]]ら当時一流の文化人との交流を持ち、堺町連という狂歌師のグループを形成した。『狂歌友なし猿』、『市川白猿集』など著書も多数ある。[[18世紀]]後半における江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた名優であった。