「経 (仏教)」の版間の差分

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== 漢訳経典 ==
中国における'''経典'''の漢訳事業は[[2世紀]]後半から始まり、[[11世紀]]末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、経典の真偽の判別が必要となり、[[4世紀]]末には[[釈道安]]によって最初の[[経録]]である『''綜理衆経目録''』(亡佚)が、[[6世紀]]初めには[[僧祐]]によって『''[[出三蔵記集]]''』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、[[北朝 (中国)|北朝]]の[[北魏]]で「'''一切経'''」と呼び、[[南朝 (中国)|南朝]]の[[梁 (南朝)|梁]]で「'''大蔵経'''」と呼んだといい、[[隋]]・[[唐]]初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。
 
隋・唐時代にも[[道宣]]の『''[[大唐内典録]]''』等の多くの経録が編纂されたが、後代に影響を与えたのは[[730年]](開元18)に完成した[[智昇]]撰『''[[開元釈教録]]''』20巻である。ここでは、[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]以来の経典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗経典を[[般若経|般若]]、[[宝積経|宝積]]、[[大集経|大集]]、[[華厳経|華厳]]、[[涅槃経|涅槃]]の五大部としたうえで、大蔵経に編入すべき仏典の総数を'''5048巻'''と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、[[北宋]]以後の印刷大蔵経(一切経)の基準となった。
 
=== 大蔵経 ===
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最初の大蔵経刊本は、[[北宋]]の[[趙匡胤|太祖]]・[[太宗 (宋)|太宗]]の治世、[[971年]] - [[977年]]([[開宝]]4 - [[太平興国]]2)にかけて蜀([[四川省]])で版木が彫られ、[[983年]](太平興国8)に、都の[[開封]]に建てられた「印経院」で印刷された。これは古くは『蜀版大蔵経』と呼ばれていたが、現在では開版の年号をとって『開宝蔵』、あるいは太祖の詔勅に基づいて開版されたため『勅版』と呼ぶのが一般的である。『''[[開元釈教録]]''』によって編纂される。当時の「蜀大字本」の規格の文字により、毎行14字の巻子本形式であった。これは宋朝の功徳事業で、[[西夏]]、[[高麗]]、日本などの近隣諸国に贈与された。[[983年]]に入宋した[[東大寺]]僧の[[ちょう然|奝然]]は、新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを下賜され、日本に持ち帰ったが、[[藤原道長]]が建立した[[法成寺]]に施入したために、寺と共に焼失してしまった。ただ、新しく請来された大蔵経ということで盛んに書写されたため、その転写本が各地に幾らか残っている。『開宝蔵』の原本は、世界で12巻が確認されており、日本では京都・[[南禅寺]]および東京・[[書道博物館]]に1巻ずつ所蔵されている。
 
[[金 (王朝)|金]]の時代には、[[1147年]] - [[1173年]]にかけての時期に、『金版』が作られる。こちらも毎行14字。長らく幻の大蔵経であったが、[[1933年]]に[[山西省]]の[[趙城県]]にある[[広勝寺]]で発見される。そのため、別名『趙城蔵』とも呼ばれている。[[1984年]]より、この蔵経を底本にして『'''中華大蔵経'''』(影印版)が発刊される。また、[[元 (王朝)|元]]の時代に数次にわたって補刻が行なわれている(元代補修版)。
 
==== 契丹版系 ====
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== チベット語訳経典 ==
{{main|チベット大蔵経}}
チベットにおける個別の仏典翻訳は、[[7世紀]]'''[[ソンツェン・ガンポ|ソンツェンガンポ]]王'''の命令で、経典のチベット語訳は、{{仮リンク|トンミ・サンボータ|([[:bo|:སློབ་དཔོན་ཐུ་མི་སམ་བྷོ་ཊ། |チベット語版]] [[:en|:Thonmi Sambhota|label=トンミサンボータ}}英語版]])によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するための[[チベット語]]文法と語彙の整備が行われ ([[:en:Mahāvyutpatti|Mahāvyutpatti]])、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、[[824年]]、一応の完成をみた ({{lang|en|dkar-chag ldan-dkar-ma}}<ref>Yoshimura, Shyuki 芳村修基 (1950). The Denkar-ma: An Oldest Catalogue of the Tibetan Buddhist Canons. Kyoto: Ryukoku University.</ref><ref>川越英真『{{仮リンク|パンタン目録|』(Karchag Phangthangma [[:en|:Karchag Phangthangma}}』|英文]])の研究 A Study of dKar chag 'Phang thang ma.、日本西蔵学会会報、51: 115 – 131.</ref><ref>Kawagoe Eishin 川越英真 (2005b). Dkar chag ʼPhang thang ma. Sendai: 東北インド・チベット研究会Tōhoku Indo-Chibetto Kenkyūkai.</ref>)。
 
チベット仏教における経典の分類は、他の仏教圏とも共通する「経・律・論」の三部分類よりも、「仏説部(カンギュル)」、「論疏部(テンギュル)」の2分類が重視される。カンギュルとは釈尊のことばそのものである「カー」をチベット語に「ギュル」(翻訳)したもの、テンギュルとは、竜樹らインドの仏教学者たちが「カー」に対してほどこした注釈である「テン」をチベット語に「ギュル」したもの、の意味である。
 
チベットでは、経典は、信仰心を著わすものとしてながらく写本で流布していたが、[[中国]]の[[明朝]]の[[永楽帝]]は中国に使者を派遣するチベット諸侯や教団への土産として、[[1410年]]木版による大蔵経を開版、この習慣がチベットにも取り入れられ、以後、何種類かが開版されることになった。
* [[北京版]] [[永楽版カンギュル]](1410年)、[[万暦版カンギュル]]([[1606年]])、[[康熙版カンギュル]]([[1692年]])、[[雍正版テンギュル]]([[1724年]])
* [[リタン版]]([[1621年]]-[[1624年]])
* [[ナルタン版]] カンギュル([[1732年]])、テンギュル([[1773年]])
* [[デルゲ版]] カンギュル([[1733年]])、テンギュル([[1742年]])
* [[ラサ版]] カンギュル([[1936年]])
また中国では、[[1990年代]]より、洋装本の形式で刊行される[[中華大蔵教]]事業の一部として、過去の諸写本、諸版の多くを校合したテンギュルの編纂が進められている。
 
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【大蔵経は幾度も開板されたが、[[18世紀]]のデルゲ版、ナルタン版、北京版などが重要。】なぜ重要なんでしょう?
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以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳経典の原型を探るためにも重要視されている。
 
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== 邦訳 ==
=== 全訳 ===
*『南伝大蔵経』(全65巻70冊)[[大蔵出版]]
**『律蔵』(5巻5冊)
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**『印度撰述部』(全155巻155冊)
**『和漢撰述部』(全100巻102冊)
 
=== 部分訳 ===
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== 参考文献 ==
* 『大蔵経:成立と変遷』[[大蔵会]]編([[京都市|京都]]:[[百華苑]]、[[1964年]])
* 『漢訳大蔵経の歴史:写経から刊経へ』[[竺沙雅章]][著](京都:[[大谷大学]]、[[1993年]])
* 『[[敦煌学]]とその周辺』第4回講座「漢訳大蔵経」[[藤枝晃]][講話](なにわ塾叢書51)([[大阪市|大阪]]:[[大阪府]]、[[1999年]])
* 「漢語仏典:その初期の成立状況をめぐって」[[船山徹]]([[京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター]]編『漢籍はおもしろい』所収)([[東京都|東京]]:[[研文出版]]、[[2008年]])
 
== 関連項目 ==