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'''木村 愛二'''(きむら あいじ、[[1937年]] - )は日本の[[ジャーナリスト]]、木村書店代表。筆名に征矢野仁、徳永正樹。歴史見直し研究会代表。[[ホロコースト]]見直し論者
== 来歴・人物 ==
[[東京府]]生まれ。幼時を[[北京市|北京]]で過ごし、日本敗戦後の[[1946年]]に家族で中国から[[引き揚げ]]た。大陸で、日本人[[収容所]]の収容所生活を経験している。帰国後、[[防衛大学校]]に入学する(第3期生)も、[[1955年]]に中退。[[東京大学]]に再入学する。[[1960年]]の[[60年安保]]の際には、[[国会]]へのデモに参加し、国会の南門を開ける役割を果たしている。また、この際に犠牲となった[[樺美智子]]を知る一人でもある(「[[樺美智子]]は、普段はデモに来なかったのに、あの日に限ってデモに来た」と、60年安保40周年を記念して開かれた討論会で回想している)。
[[1961年]]、[[文学部]]英文学科卒業。同年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]に入社、編成局、広報部、調査部などに勤務
[[1972年]]、労使紛争により解雇されたことを不服として会社側を提訴。[[1988年]]に[[和解]]後退職。以後[[フリーランス]]となる。[[メディア]]問題、古代アフリカ史問題、[[佐川急便]]問題などの著作を発表する。
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本書を読んだ[[西岡昌紀]]はこれを切っ掛けに木村の著作活動に関心を持ち、西岡がそれまでに収集して来た[[ホロコースト否認|ホロコースト見直し論]]に関する英文資料の提供を木村に申し入れた。これを切っ掛けに木村はホロコースト見直し論に関心を持ち、『[[噂の真相]]』[[1994年]]9月号に「『[[シンドラーのリスト]]』が訴えたホロコースト神話への大疑惑」を寄稿した。これ以前にも[[宇野正美]]などがしばしばホロコースト否定論に言及しており全くの先駆というわけではなかったが、後の[[マルコポーロ事件|『マルコポーロ』事件]]のような内外からの反発は招かなかった。また『噂の真相』におけるこの記事の発表と前後して、[[野坂昭如]]らと共に、西岡が立ち上げた情報操作研究会に参加し、「ガス室」問題についての討論に加わっている。
[[1995年]]1月、『マルコポーロ』事件が起きた際には、西岡の記者会見を準備し、アメリカのユダヤ人
なお、この事件以前、『[[週刊金曜日]]』の[[本多勝一]]編集長が、木村に対して「ガス室」を再検証する立場からの連載を依頼していた(これについて、木村は、本多から送られた執筆依頼のファックスを公開している)。しかし、『マルコポーロ』事件後、本多が『週刊金曜日』において西岡と木村を攻撃したことから、それまで友好的であった木村と本多の関係は悪化した。1999年に、ホロコースト否定論を批判する『週刊金曜日』の記事により[[名誉棄損|名誉を毀損された]]として著者の[[梶村太一郎]]と[[金子マーティン]]、そして『週刊金曜日』を[[東京地方裁判所]]に提訴し、1000万円の[[損害賠償]]を請求した。1999年に請求は棄却となり、この際裁判所は「ホロコーストは世界にあまねく認められた歴史的事実」という認定を行っているが<ref name="松浦寛2000"/>、木村は「歴史的勝利」と主張している。
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* [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]
* [[読売新聞]]
* [[湾岸戦争]]
* [[西岡昌紀]]
* [[ホロコースト]]
* [[ホロコースト否認]]
* [[ホロコースト否認論の考察]]
== 外部リンク ==
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