「大石神影流」の版間の差分

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大石進種次は、吊した鞠を[[竹刀]]で突いて、突き技を磨いたと伝えられる。父親から愛洲神影流剣術と大島流[[槍術]]を継承した後に、大石神影流を開いたとされる。
 
種次は、江戸に出て、5[[尺]]3[[寸]]の長竹刀を遣い、突きと胴切りで、江戸の名だたる剣術師家を倒した。この時に、『一刀流極意』によれば[[白井亨]]のみが種次に勝ったとも、[[千葉周作]]が樽の蓋を鍔にして引き分けたともいわれる。
勝海舟も当時のことを「御一新以上の騒ぎ」と記しており、その後長竹刀が流行した。
 
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また[[高知市|高知]]に招かれ、大石神影流が、[[土佐藩]]の[[藩校]]で指導されるようになった。
 
流儀の特徴としては、剣尖を敵の喉に向け、左肘を曲げて水平に構えるという、まるで槍術の構えを思わせる「附」(つけ)という構えから、左片手突きを繰り出すのが得意な流派である。これは大石種次が大島流槍術の指南であったことから、槍術から発案したものと思われる。大石進は5尺3寸の長竹刀を遣ったが、流儀の定寸は3尺8寸(これでも当時の基準では長い竹刀だが)である。「鞘之内」と称する[[大太刀]]の[[抜刀術|居合]]や、[[小太刀術]]も含み、すべての剣技は型の応用変化であるとして、その数は100ほどある。
 
大石種次の墓は恵日寺にあり、現在の宗家は大石英一。
 
[[Category:剣術流派|おおいししんかりゆう]]
[[Category:居合|おおいししんかりゆう]]
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