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*[[ソロイのクレアルコス]]([[:en:Clearchus of Soli|Clearchus of Soli]])
 
[[紀元前86年]]、[[ローマ]]の将軍[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]によってアテナイが奪取された時、アテナイにあった哲学の全学派が崩壊した。アテナイの逍遙学派も終焉を迎えたと思われるが、後世の[[ネオプラトニズム]]の著作家、ヘルメイアスの子アンモニオス([[:en:Ammonius Hermiae<!-- [[:ja:アンモニオス・ヘルメイウ]] とリンク -->|Ammonius Hermiae]])は、[[紀元前50年]]に生きた[[ロドスのアンドロニコス]]([[:en:Andronicus of Rhodes|Andronicus of Rhodes]])を11代目逍遙学派学頭として記述している<ref>Ammonius, ''In de Int.'' 5.24</ref>。しかし、アンモニオスは別の本で、アンドロニコスの弟子[[サイダ|シドン]]のボエソス([[:en:Boethus of Sidon|Boethus of Sidon]])を11代目学頭と書いている<ref>Ammonius, ''In An. Pr.'' 31.11</ref>。いずれにしても、アンドロニコスが新しい逍遙学派を興し、そこでボエソスを教えたようである。
 
ローマ時代には、逍遙学派の哲学者は僅かしかおらず、その中で重要な人物というと、アリストテレスの著作を注釈した[[アプロディシアスのアレクサンドロス]]([[:en:Alexander of Aphrodisias|Alexander of Aphrodisias]]。[[200年]]頃)である。[[3世紀]]のネオプラトニズム(および[[キリスト教]])の台頭とともに、重要な哲学としての逍遙学派は終わりを迎えたが、ネオプラトニズムは自分たちの学説にアリストテレスの哲学を取り込み、アリストテレスの著作に関する多くの注釈本を生み出した。[[5世紀]]のオリュンピオドロス([[:en:Olympiodorus the Elder|Olympiodorus the Elder]])は時々逍遙学派と言われることがある。