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== 来歴・人物 ==
{{by|1953年}}浪華商業高校(現・[[1954年大阪体育大学浪商高等学校]])に入学。2年生の{{by|1954年}}に[[右翼手]]として[[第26回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]に出場する。2回戦でこの大会に優勝した[[長野県飯田長姫高等学校|飯田長姫高]]の[[光沢毅エース]][[投手光沢毅]]に抑えられ敗退。一年上のチームメートに[[片岡宏雄]][[捕手]]がいた。翌[[{{by|1955年]]}}の[[第27回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]では四番打者、[[中堅手]]に回るとして出場。チームは順調に勝ち上がり、決勝[[群馬県立桐生高等学校|桐生高校]](群馬)と対戦。桐生高校監督の[[稲川東一郎]]は坂崎に対して勝負を避ける選択を取った。坂崎は2[[打席]][[敬遠]]されたが、第3打席に桐生高エースの[[今泉喜一郎]]は勝負し、その打席で2ランホーマー点[[本塁打]]を放つ。結局、浪華商は延長11回にサヨナラ勝ちして、18年ぶり2回目の優勝を飾った。同年[[第37回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]にも出場するが、1回戦で[[前岡勤也]]投手を擁する[[和歌山県立新宮高等学校|新宮高]]に敗れ、春夏連覇はならなかった。チームメートに谷本隆路、[[広島尚保]]の両投手、[[山本八郎]]捕手[[勝浦将元[[三塁手]](のち[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]])がおり、谷本以外はプロ入りしている。
プロでは[[読売ジャイアンツ]](1956年-1964年)、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]](1965年-1967年)でプレーした。浪華商業高校(現・[[大阪体育大学浪商高等学校]])に在学中、甲子園大会に3回出場し、大活躍したことで知られる。
 
坂崎の打棒は'''坂崎大明神'''呼ばれ相手に恐れられた。後年、坂崎は「桐生は普通にやっても強いチームだった。敬遠に対して怒るような気持ちは全くない。ただ、妙な作戦を取るものだとは思った。自分の後ろを打っている山本八郎もよく打っていたからね。」と語っている。
[[1954年]]、2年生の時に[[右翼手]]として[[第26回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]に出場、2回戦で、この大会に優勝した[[長野県飯田長姫高等学校|飯田長姫高]]の[[光沢毅]][[投手]]に抑えられ敗退。一年上のチームメートに[[片岡宏雄]][[捕手]]がいた。翌[[1955年]]の[[第27回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]では四番打者、[[中堅手]]に回る。チームは順調に勝ち上がり、決勝では[[群馬県立桐生高等学校|桐生高校]](群馬)と対戦。桐生監督の[[稲川東一郎]]は坂崎に対して勝負を避ける選択を取った。坂崎は2打席敬遠されたが、第3打席に桐生高エースの[[今泉喜一郎]]は勝負し、その打席で2ランホーマーを放つ。浪華商は延長11回にサヨナラ勝ちして、18年ぶり2回目の優勝を飾った。同年[[第37回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]にも出場するが、1回戦で[[前岡勤也]]投手を擁する[[和歌山県立新宮高等学校|新宮高]]に敗れ、春夏連覇はならなかった。チームメートに谷本隆路、[[広島尚保]]の両投手、[[山本八郎]]捕手、勝浦将元[[三塁手]]([[横浜DeNAベイスターズ|大洋]])がおり、谷本以外はプロ入りしている。
 
{{by|1956年}}に[[読売ジャイアンツ|巨人]]に入団。パワフルな打撃で入団1年目から外野手の控えとなるが、身体が硬いために内角の[[速球]]に付いていけずに追い込まれ、高めのボールに手を出して[[三振]]するパターンが多く低打率にあえいだ<ref>『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』307頁</ref>。3年目の{{by|1958年}}に108試合に出場しレギュラーに定着し、初めて[[1958年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場する。{{by|1959年}}には主に五番打者を務め、[[打率]].284(リーグ4位)、15[[本塁打]]、64[[打点]]を記録、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]を受賞した。同年の[[天覧試合]]にも出場し、5回裏に長嶋茂雄に続く連続本塁打を放っている。{{by|1960年}}は打率.202と低迷しレギュラーを奪われるが、{{by|1961年}}から{{by|1963年}}にかけては[[長嶋茂雄]]・[[王貞治]]と[[クリーンナップ]]を組んで五番を打つ。特に{{by|1962年}}は打率.276(リーグ7位)、6本塁打、44打点を挙げ三度目の[[1962年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場を果たした。
坂崎の打棒は「坂崎大明神」と相手に恐れられた。後年、坂崎は「桐生は普通にやっても強いチームだった。敬遠に対して怒るような気持ちは全くない。ただ、妙な作戦を取るものだとは思った。自分の後ろを打っている山本八郎もよく打っていたからね。」と語っている。
 
[[1956{{by|1964]]}}巨人に入団、ここではパワフルな打撃で入団1年目から1軍の試合に出場する。レギュラーに定着した[[1959年]]には主に5番打者を務め、打率.284(4位)、15本塁打を記録、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]を受賞した。同年の[[天覧試合]]にも出場し、5回裏、長嶋茂雄に続く連続ホームランを放っている。その後も活躍を続けるが[[1964年]]には237と打撃が低迷。[[1965すると、同]]オフ3対3(巨人から坂崎[[山崎正之]][[池沢義行]]、東映から[[吉田勝豊]][[安藤元博]][[石原碩夫]]の3対3の交換[[トレード]][[東映フライヤーズ]]に移籍する移籍1年目の{{by|1965}}[[右翼手]]の定位置を確保し123試合に出場して、打率.258、11本塁打、45打点を挙げるまた特に[[代打]]打率.472という驚異的な成績を残す。しかしその後は出場機会が減り、[[{{by|1967年]]}}限りで現役を引退した。
 
引退後は、家業の電気工事店を継いだ。また、[[日本プロ野球OBクラブ|全国野球振興会]]会員でもあった。
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* '''8''' (1962年 - 1964年)
* '''3''' (1965年 - 1967年)
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
*『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年
*坂本邦夫『プロ野球データ事典』PHP研究所、2001年
 
== 関連項目 ==