「アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン」の版間の差分

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だが、その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。特に[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|選帝侯]][[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]はデンマーク戦争でヴァレンシュタインに何度も多額の金を支払い不満が高まっていたため、フェルディナント2世に対してヴァレンシュタインへの抗議を繰り返していった。また、ボヘミアの小貴族に過ぎないヴァレンシュタインが一気に帝国諸侯に成り上がったことも旧来の帝国諸侯たちの反感を買い、ヴァレンシュタイン及び皇帝政府は徐々に孤立していった。
 
1628年7月にヴァレンシュタインはプロテスタントの都市[[シュトラールズント]]を包囲していたが、頑強な抵抗及び[[スウェーデン]]とデンマークの援助で包囲は難航し撤退した。クリスチャン4世は直ちにドイツへ再上陸したが、待ち構えていたヴァレンシュタインは{{仮リンク|ヴォルガストの戦い|de|Schlacht bei Wolgast|en|Battle of Wolgast}}でデンマーク軍を破り、翌[[1629年]]の{{仮リンク|[[リューベック条約|en|Treaty of Lübeck|label=リューベックの和約}}]]成立でデンマークをドイツから締め出した。この時点で表立って反抗するプロテスタントがいなくなり、フェルディナント2世とヴァレンシュタインの権力は絶頂期に達した<ref>菊池、P88 - P93、成瀬、P488 - P489、ウェッジウッド、P211 - P212、P217 - P227、P230 - P243、P252 - P253。</ref>。
 
しかし諸侯の不満は収まらず、1629年にフェルディナント2世がプロテスタントの勢力削減及び諸侯の軍事力を制限してハプスブルク家の[[絶対君主制]]確立を企てた{{仮リンク|[[復旧令|de|Restitutionsedikt|en|Edict of Restitution}}]]({{lang-de-short|Restitutionsedikt}})を発布するとたちまちプロテスタント・カトリック双方から反対の声が上がり、ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルム、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク1世]]、[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]][[バイエルン大公|選帝侯]][[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン1世]]ら選帝侯はフェルディナント2世の嫡男[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]](後のフェルディナント3世)の[[ローマ王]]選出拒否を楯に復旧令の撤回とヴァレンシュタイン罷免を要求、フェルディナント2世は窮地に立たされた。また、[[イタリア]]の[[マントヴァ公国]]で[[スペイン]]と[[フランス王国|フランス]]が介入した継承問題が起こると、スペインに迎合しようとヴァレンシュタイン軍を派遣しようとして拒否されたことからヴァレンシュタインにも不信感を募らせていった。
 
そして[[1630年]]、ヴァレンシュタインはフェルディナント2世に総司令官を罷免され、軍を解散してフリートラントへ戻った(翌年にはメクレンブルク公位も取り上げられた)。一方のフェルディナント2世はローマ王選出がなされず諸侯の懐柔に失敗した上、同年にスウェーデン王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]がプロテスタント諸侯とフランスの支援を受けて北ドイツに上陸、後任の司令官ティリーが[[1631年]]に[[マクデブルクの戦い]]における虐殺でプロテスタントを一層離反させるなど危機に陥った<ref>菊池、P93 - P104、P106 - P117、成瀬、P489 - P490、ウェッジウッド、P253 - P262、P266 - P272、P279 - P318。</ref>。