「ウラジーミル・マヤコフスキー」の版間の差分

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1925年、マヤコフスキーは西欧と[[アメリカ合衆国]]に約半年間の外遊をおこなった。[[ニューヨーク]]ではロシアからの亡命者だったモデルのエリー・ジョーンズと交遊し、ジョーンズは後に娘(エレーナ)を産んでいる<ref>[http://jp.rbth.com/arts/2013/07/10/44025.html インタビュー: 詩人マヤコフスキーの娘が語る父] - ロシアNOW(2013年7月10日)</ref>。また、1928年に外遊した折にはパリでタチアーナ・ヤーコヴレワという女性(やはり亡命ロシア人)と恋仲になり、真剣に結婚を考えるほどになったが、ヤーコヴレワがソ連への帰国に同意せず、実現しなかった<ref name="kameyama2p149">亀山(2010年)、pp.149 - 150</ref>。帰国後の1929年5月、ブリーク夫妻から女優のヴェロニカ・ポロンスカヤを紹介され、亡くなるまで交友を持つことになる<ref name="kameyama2p149"/>。
 
ブリーク夫妻には[[チェーカー]]での活動歴があり、後の研究で3人が同棲した居宅(一種の文学サロンとなっていた)には1927年ごろから多くの[[ゲーペーウー|OGPU]]員が出没しており、その中にはマヤコフスキーの死後にその顕彰に一役買った[[ヤーコフ・アグラーノフ]](OGPU秘密部門のトップ)も含まれていた<ref name="kameyama2p131">亀山(2010年)、p.131、143 - 147</ref>。マヤコフスキー自身はブリーク夫妻のチェカー歴を知っていたとされ、また[[大粛清]]以前のソ連社会ではチェカー員はむしろ尊敬の対象でもあった<ref name="kameyama2p131"/>が、その一方で1929年以降は政府から批判の対象となった「当時のマヤコフスキーほど、秘密警察員によってあらゆる方向から包囲されていた詩人は他にだれもいない」と呼ばれる状況にも立ち至っていた<ref>亀山(1996年)、p.187</ref>。前記のエリー・ジョーンズは後年の回想で「マヤコフスキーはリーリャ・ブリークが自分の行動を逐一[[内務人民委員部|NKVD]]に報告しているのではないか、と恐れていました」という証言を残している<ref name="kameyama2p131"/>。数度にわたる外遊が、ブリーク夫妻からの「逃走」だったのではないかという説を唱える研究者もいる<ref name="kameyama2p131"/>。
 
1929年、マヤコフスキーはソ連共産党に近い[[ロシア・プロレタリア作家協会]](ラップ)から激しい批判を受けていた<ref>亀山(1996年)、p.186</ref><ref name="kameyama2p149"/>。