「加藤楸邨」の版間の差分

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「火の奥に」は、空襲で家を焼かれた際の句。「雉の眸の」は戦後、焦土と化した土地の光景を詠んだものである<ref>『定本 現代俳句』 415-416頁。</ref>。これらの戦時詠、焦土詠の悲痛な調子を経て、『起伏』(1949年)からは諧謔味のある句が現われて人間性の深まりを見せる<ref>『定本 現代俳句』 421-423頁。</ref>。また組合運動や基地反対運動にも加わったことで戦後の社会性俳句の端緒を開く。1960年から62年にかけては胸部疾患により数度の手術を受けるが、この頃にはまた「寒雷」同人の[[安東次男]]の影響で古美術、特に古硯への興味を深めさらに作風の幅が広がった<ref>『加藤楸邨集』三橋敏雄解説、384頁。</ref><ref name=IMAI1/>。
 
1972年から74年にかけては、日本とは異質な風土における俳句の可能性を求めて3度にわたるシルクロード旅行を行い、これらの成果は『死の塔』『吹越』に収められている<ref>『加藤楸邨集』三橋敏雄解説、384-385頁。</ref>。晩年の『怒涛』には「ふくろふに紅の手毬つかれをり」「天の川わたるお多福豆一列」といった不思議なユーモアのある句で新たな境地を見せた<ref>『図説俳句』 168頁。</ref><ref>[http://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A9%E3%81%AE%E5%B7%9D%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%82%8B%E3%81%8A%E5%A4%9A%E7%A6%8F%E8%B1%86%E4%B8%80%E5%88%97 天の川わたるお多福豆一列] 現代俳句データベース 松林尚志評、2015年3月21日閲覧。</ref>。
 
== 楸邨山脈 ==