「中村草田男」の版間の差分

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== 作品 ==
虚子の守旧派としてのスタイルを継承しつつ俳句の現代化を推進。[[加藤楸邨]]、[[石田波郷]]らと共に人の内面心理を詠むことを追求し'''[[人間探求派]]'''と称せられた。中村は俳句を「芸」(俳句の特殊性)と「文学」(普遍性、内面の無制約性)から成り立つものと考えており、後者に欠けるとして「ホトトギス」派の伝統俳句を、前者を放棄しているとして新興俳句、前衛俳句、社会性俳句を批判した<ref>齋藤慎爾、坪内稔典、夏石番矢、榎本一郎編 『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年、67頁</ref>。
 
代表的な句としては、
*蟾蜍(ひきがえる)長子家去る由もなし(『長子』所収)
*降る雪や明治は遠くなりにけり(1931年作。『長子』所収)
*冬の水一枝の影も欺かず(『長子』所収)
*玫瑰(はまなす)や今も沖には未来あり(同)
*校塔に鳩多き日や卒業す(同)
*萬緑(ばんりょく)の中や吾子の歯生え初むる(1940年作。『火の鳥萬緑』所収)
*勇気こそ地の塩なれや梅真白(1944年作。『来し方行方』所収)
*葡萄食ふ一語一語の如くにて(1947年作。『銀河依然』所収)
などがある。自己流で「ホトトギス」の客観写生を学んだのち、季語の象徴性を生かし、西洋近代文学の思想性を日本的な情感に解かしこむ表現を模索<ref>『中村草田男』三橋敏雄解説 325頁。</ref><ref name=DAIJITEN391392/>。「金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴(きゃつ)を吊り」など、時にその表現は難解な語句や大胆な字あまり・破調となり「難解派」と呼ばれる一因ともなった<ref>『図説 俳句』 170頁。</ref>。同じく難解派・人間探求派と呼ばれた加藤楸邨、石田波郷が「ホトトギス」を離反した「馬酔木」に拠ったのに対し、草田男は「ホトトギス」に残り続け、俳句の伝統性固有性の枠内に止まろうとしたが、「ホトトギス」のスローガンである「[[客観写生]]」「[[花鳥諷詠]]」を安易に運営すれば自己不在、人生逃避に陥りかねないという危惧も持っていた<ref>『中村草田男』三橋敏雄解説 324-326頁。</ref>。戦時になると時局に便乗した年長の俳人からの圧力もあり、1943年より「ホトトギス」への投句を断念している<ref>『定本 現代俳句』 332頁。</ref><ref>『中村草田男』三橋敏雄解説 328-329頁。</ref>。
などがある。なお「萬緑(万緑)」という言葉は、草田男が上記の句で初めて用いて以後[[季語]]として広まったものである。もとは[[王安石]]の詩「咏柘榴詩」の「万緑叢中紅一点、動人春色不須多」(ただし、この詩は王安石の作ではないともいわれる。[[王安石|王安石の「注釈」]]を参照)。
 
一方で[[日野草城]]のフィクション的な連作「ミヤコホテル」を強く批判したのを初め、新興俳句運動に対しては強い興味を示しつつも楸邨らとともに強力な批判者としての立場に身を置く<ref>『中村草田男』三橋敏雄解説 326頁。</ref>。戦後も[[第二芸術]]論、「[[天狼]]」の根源俳句論、前衛俳句や[[山本健吉]]の「軽み」論をめぐる論争でこれらを批判、ほか自身の『銀河依然』(1953年)の序が俳句の社会性の問題を惹起するなど、戦後の俳句論争史において常に主導的な役割を果たした<ref name=DAIJITEN391392>[[横澤放川]] 「中村草田男」『現代俳句大事典』 391-392頁。</ref>。また草田男の戦中の作「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」について、この句の犬を戦中の熱狂に対する批判的精神が見出した「写実的象徴」として評価する[[赤城さかえ]]と、そのような曖昧な手法は否定すべきだとする芝子丁種との間で1947年から翌年にかけて論争が起あり「草田男の犬論争」と呼ばれている<ref>[[川名大]]「草田男の犬論争」『現代俳句大事典』 198-199頁。</ref>。
 
掲句の「蟾蜍」は第一句集『長子』を代表する句で、自解によれば「『宿命の中における決意』に近いもの」を暗示しているという(山本健吉はニーチェの「運命愛」と結び付けて論じている)。「由もなし」を「術もなし」に類するような意味で解釈されたことがあったが、字義どおり「そのようなことは起こりえない」の意であると草田男自身が抗議している<ref>『定本 現代俳句』 316-318頁。</ref>。「降る雪や」の句は大学時代、母校の青南小学校を訪ねたときの感慨を詠んだ句で、草田男の名を離れて広く知られている句である<ref>『定本 現代俳句』 321-322頁。</ref><ref name=DAIJITEN391392/>。1977年には同校に句碑が建てられている<ref name=NENPU>『中村草田男』略年譜 317-320頁。</ref>。
 
「萬緑の」は「萬緑(万緑)」という語を季語として初めて用い定着させた句<ref>『定本 現代俳句』 328-329頁。</ref>。この語は[[王安石]]の詩(作者は別人説もある)「咏柘榴詩」の「万緑叢中紅一点、動人春色不須多」などに見られる。「勇気こそ」の「地の塩」は、聖書の「汝らは地の塩なり。塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき」という一節に由来する熟語で、他者から価値付けられるのではなく、自らが価値の根元となるものの意に用いられる言葉である。句は教え子たちの学徒動員に際して作られた<ref>『定本 現代俳句』 331-333頁。</ref>。
 
== 著作リスト ==