「灰田勝彦」の版間の差分

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昭和20年([[1945年]])、傷病兵として復員した灰田は、芸名であった勝彦の名を本名にした。人気はさらに上昇し、リバイバルヒット「新雪」「燦めく星座」をはじめ、「紫のタンゴ」「東京の屋根の下」とレコードの大ヒットが続く。昭和21年、高峰と[[日本劇場|日劇]]で公演した『ハワイの花』は、連日超満員の観客動員を果たし、まさに絶頂期を迎えるのであった。戦争のため、関係を引き裂かれていた地元ハワイのフローレンス君子と昭和23年に結婚。
 
スクリーンでは、東宝映画『歌え太陽』をスタートとして、『花くらべ狸御殿』『銀座カンカン娘』『ターキー銀座を歩く』など、主にミュージカル的な歌謡映画に数多く出演している。「立教出身者で固めよう」と自身が企画した映画『歌う野球小僧』は、[[上原謙]]、[[笠置シヅ子|笠置シズ子]]らの共演により成功し、大ヒットした主題歌「[[野球小僧]]」は野球好きな灰田のテーマソングとなった。
 
昭和20年代後半に入っても、「[[アルプスの牧場]]」では見事な[[ヨーデル]]を披露し大ヒット、その後も「水色のスーツケース」「新橋駅でさようなら」とヒットが続く。この頃、野球選手の[[別所毅彦]]、大相撲の[[東富士]]、俳優の[[鶴田浩二]]らと義兄弟の契りを交わし映画『四人の誓い』に出演して話題となる。