「上宮聖徳法王帝説」の版間の差分

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『'''上宮聖徳法王帝説'''』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)は、[[聖徳太子|厩戸皇子(聖徳太子)]]の伝記の1つ。現存する聖徳太子伝記としては最古のものである。作者、成立年代ともに不詳。全一巻で、[[家永三郎]]の分類によれば五部構成となっている。仏教的事績を主な記録とするが、後述するように一部に日本書紀とは異なる記録が見える。
 
== 概説 ==
原本は残存しない。[[写本]]は[[江戸時代]]末期まで[[法隆寺]]秘蔵物で天下の“孤本”といわれた。後に[[知恩院]]に移されて現在は[[国宝]]である。この写本の巻末に所有者だったと思える高僧([[相慶]]・法隆寺五師の一人、12世紀後半の人物)の名が残されていることから、編者は法隆寺縁の高僧、成立年代を少なくとも12世紀以前まで遡ることができる。内容から主な部分は[[弘仁]]年間([[810年]] - [[824年]])以降、[[延喜]]17年([[917]]年以前には成立し、[[永承]]5年([[1050年]])までには現在の形となったとされる<ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『上宮聖徳法王帝説』</ref>
 
これまでほとんど世に知られていなかったが、写本の近代史学の発展に伴い、官製の『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』などの文献批判が行われ、本書の内容が記紀以前の古い史料が基礎になっていると思量され、記紀を補完する信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。
 
=== 構成 ===
; 第一部
: 厩戸豊聰耳聖徳法王の系図を文章で表現している。特に妻や女子の名も記しているところが後の父子のみの系図と異なる。
; 第二部
: 厩戸豊聰耳聖徳法王の事績。仏教的事績のほかに[[冠位十二階]]について詳述。
; 第三部
: [[法隆寺]]の御物の銘文を収めている。特に[[天寿国繍帳|天寿国曼荼羅繻帳]]の銘文は現物が断片的にしか残存していないのでその記録は貴重である。
; 第四部
: 断片的な歴史の記録が箇条書き的に記録されており、[[十七条憲法]]や[[蘇我入鹿]]事件の年代あるいは、「志癸島天皇御世 [[戊午]]年[[10月12日 (旧暦)|十月十二日]]」に[[百済]]の[[聖王 (百済)|聖王]]からの[[仏教公伝]]、山代大兄([[山背大兄王]])事件等が記されている。
; 第五部
: [[欽明天皇]](志帰島天皇治天下卅一年(辛卯年四月崩陵桧前坂合岡也)」)から[[推古天皇]]の治世年数とそれぞれの崩御年そして陵の所在地を書いている。ここでは、欽明天皇の治世年数([[辛卯]]年より卅一年(31年)前)から逆算した即位年が『日本書紀』(宣化天皇4年に即位)と相違し、学者の論争の的となっている。
:※<small>逆算による欽明天皇の即位年は[[531年]]で『日本書紀』では[[継体天皇]]25年にあたる。[[安閑天皇|安閑]]・[[宣化天皇|宣化]]両天皇のあとの宣化天皇4年([[539年]])に即位したとする『日本書紀』とは整合しない。[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]のように安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱状態にあったという説や、単に暦法上の問題とする説などがある。</small>