「セイイェド・アリー・モハンマド」の版間の差分

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[[画像:Shrine Bab North West.jpg|200px|thumb|[[ハイファ]]にあるバーブの聖廟]]
 
本名ミールザー=アリー=モハンマドは預言者ムハンマドの家系([[サイイド|セイイェド]])に生まれた。彼は[[1844年]][[5月23日]]に自らは十二イマーム派の約束された[[マフディー]]の再来であると宣言し、イスラームの自由主義的改革を訴えて支持を集め始めた。これに対して十二イマーム派の聖職者たちはほとんどが激怒し、バーブを異端者、更には背教者と断罪した。
 
バーブ教徒は十二イマーム派聖職者とその扇動する群衆によって攻撃を受け、両者の間では時に数千人規模の犠牲者をうむ戦闘さえ展開された。アリー=モハンマド自身は1846年以降断続的に拘留され、1850年7月9日に銃殺された。数ヶ月以内に他の多くの直弟子たちも同じ運命をたどった。