「柳寛順」の版間の差分

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[[1919年]]、[[三・一独立運動]]が勃発すると[[朝鮮総督府]]から各学校に対して休校命令が下された。故郷の天安に帰り、教会関係者などを通じて万歳デモを計画した。4月1日、柳寛順は並川市場に集まった群集に独立運動のアジ演説を行い、デモ行進に移った。しかし、日本の憲兵警察は群集に発砲し、柳寛順の父母も死亡した<ref>裁判所の公式記録である判決文(大正8年6月30日言い渡し)、柳寛順の囚人識別票の資料によれば、[[内乱罪]]の適用などは無く、懲役2年6箇月とされている。罪状も上の事実のうち主たる先導者であること、演説を行ったこと等は資料上からは確認できない。</ref>。
 
一審で暴力デモを主導した罪で懲役3年が宣告されたが、控訴審裁判で裁判長と言い争いになり、裁判所の椅子を裁判長に投げつけるという事件を起し。この法廷内の事件ためよって[[法廷侮辱罪]]が適用され4で7年の刑期が追加求刑さになったとまことしやかに伝えらているが、宣告された刑期は3年誤りであった。[[高等裁判所]]に上告せず、これが刑量になったが、減刑があり最終刑量は2年6ヶ月となった<ref>判決当日(取調べ中という説もあり)に行なったと言われる法廷侮辱罪や7年の求刑も裁判記録になく、前述の通り微罪による懲役2年6箇月の言い渡しを受け、控訴せずに、西大門刑務所に服役した記録のみである。</ref>。しかし、その後も大規模獄中デモを主導するなど抵抗を続けた。[[1920年]][[10月12日]]([[9月28日 (旧暦)|旧暦9月28日]])、[[西大門刑務所]]内で残酷な拷問により獄死したとされるが、死亡日時には諸説ある<ref>拷問により死亡との説もあるが、これに対応する取調べ記録は作成されていないため残されていない。</ref>。
 
なお、[[天安市]]に「柳寛順体育館」がある。
[[韓国のキリスト教]]の一部会派には、「祖国解放と世界平和のために投獄された柳寛順烈士は、アジアの[[ジャンヌ・ダルク]]。その意義を模範として、韓日両国の友好と韓半島(朝鮮半島)統一の先頭に立つ」との見方より神聖化をはかる考え方もある。
 
他方、柳寛順については、彼女英雄性を高めようとするあまり、日本の蛮行、勇敢さについては極端な誇張と確したり、事な証拠に基づかない空想部分伝聞多いという指摘なされる一方、日本による犯罪を薄めるために、こちら歴史と乖離した貶め。まような言い方がされてき一部の主張には、柳寛順の四肢が切断されて石油缶に詰められたというものもあるが、そのような事実もなかったことが学友の証言で明らかになっている<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=24426&servcode=400&sectcode=400 「柳寛順への日本の蛮行、誇張多い」]『中央日報』2002年2月26日</ref>。今後のさらなる研究に期待したい
 
なお、『朝鮮独立運動の血史』には彼女の名を見ることもできない。(写真は訳者の挿入)
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