「ヤーコプ・グリム」の版間の差分
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1829年主席図書館司書が死去した際、グリム兄弟はその後任に指名されることを期待したが、その願いは叶えられず、2人は新たなポストを探し始める。1830年ヤーコプ・グリムは、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]から教授での招聘を受ける。ここで彼は1837年[[ゲッティンゲン7教授事件]]に連座し、その地位を奪われ、その地から追放処分を受けることになる。1841年プロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]の招きで[[ベルリン]]に移り、[[プロイセン学士院]]の一員に推挙され、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]で法学の講義を担当することになる。だが、彼が[[ゲルマニステン]]の立場に立ったことにより、学説上対立関係にあった[[ロマニステン]]の名実ともに中心人物であった師・サヴィニーとの訣別を意味することになった。また、1848年の[[フランクフルト国民議会]]では、議員として名誉席を与えられた。
彼はその死に至るまで約20年間ベルリン大学で教鞭を採り、そこでその弟と共に『ドイツ語辞典』 (
弟ヴィルヘルムと共に彼は、ゲルマンの古典文献学、[[ゲルマン語]]学、そしてドイツ文献学の基礎を築いたといわれる。「ドイツの職匠歌人の歌について」のような論文は、[[カール・ラッハマン]]の研究と並んで、中世の[[ドイツ文学]]の第一級の不朽の業績と見做されている。また、『ドイツ神話学』において、彼は現代に至る比較[[神話学]]や[[民俗学]]の基礎をも築いた。
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両兄弟は、その共同作業の産物である『グリムの子どもと家庭の童話』(全2巻、1812年-1815年)と『ドイツ語辞典』(1838年- 、第1巻 1854年)によりその名を知られるようになった。
『ドイツ語辞典』の「実り」 (Frucht) の項を書き終えて、ヤーコプ・グリムは、1863年9月20日に亡くなった。彼はベルリン・シェーネベルクの[[旧聖マティウス墓地]]の名誉墓地に埋葬された。
彼の遺稿、並びに彼の書き込みのある蔵書の書籍の大部分は、[[ベルリン国立図書館]] (SBB-PK) に収蔵された。彼の名前にちなんで命名されたヤーコプ・グリムスクールがカッセルにある。
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